さごしじょう
砂越城
砂越城 水堀  訪問年月日  2008年5月3日
 別称  −
 所在地  山形県飽海郡平田町大字砂越字楯之内
 創築者  −
 主要城主  砂越氏
 築城年  −
 廃城年  元和2年(1616)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  郭・土塁・水堀
 設置・復原物  説明板・隅櫓(模擬)・橋(模擬)
 文化財指定  −
 ■ 沿革
砂越城は砂越氏の居城である。創建時期は明らかではないが、久寿元年(1154)に播磨国の豪族・赤松氏の三男である石黒氏が築いたとされるが確証は無い。

−砂越氏の居城−
文治5年(1189)、奥州合戦において源頼朝が平泉の藤原氏を滅ぼした後、砂越氏を出羽国の郡司に任じた。当初、砂越氏は八幡町の市条付近に政所を構え、代官を派遣して支配させたが、後に砂越城に移ったものと思われる。
嘉吉3年(1443)、砂越城主・砂越氏信は合戦に敗れて砂越城は落城し、それにより斯波氏4代である矢口将監氏益が城主となった。
その後の文明10年(1478)、砂越六郎氏雄は室町幕府将軍・足利義尚により信濃守に任官され、飽海郡3万石を受けている。また、氏雄は東禅寺氏と手を結んで大宝寺城の大宝寺氏と対抗した。
そして永正9年(1512)、両者は戦いに及び、双方合わせて1,000余人の死傷者を出す激戦の上、砂越氏が勝利した。しかし翌年に再び合戦に及んだ際には敗北し、氏雄は田川の地で討死もしくは自刃して、砂越氏は没落した。

永正15年(1518)、大宝寺氏は、一族である氏維を砂越城の城代に任じ、天文元年(1531)には藤島城主・土佐林氏を滅ぼすなどして勢力を拡大した。天正15年(1587)、大宝寺氏の当主・義興が最上氏の支援を受けた東禅寺義長の反乱により滅亡すると、庄内の地は東禅寺氏が支配する事となった。

−十五里原合戦−
翌天正16年(1588)、上杉氏の重臣である本庄繁長が庄内に侵攻し、十五里ヶ原合戦に及んだ。
この戦いにおいて、砂越城は東禅寺兄弟に陥れられ、砂越氏は逃亡を余儀なくされた。その後、砂越氏は安東氏に仕えたという。後に安東氏が秋田氏に改称し、陸奥国三春への転封した際もこれに従っている。

その後、砂越城は上杉氏の家臣である荒川玄蕃が城代となったが、慶長6年(1601)、上杉氏が最上氏に敗れると、最上氏家臣である荒井右衛門が城代となり、元和2年(1616)には廃城となった。


 ■ 構成
砂越城は本丸・二ノ丸で構成され、本丸は長方形であり、東西42間×南北35間の規模であった。
周囲は土塁によって囲まれ、その周囲を水堀が覆っていた。土塁の高さは北側は3尺、南側1間半から2間である。
本丸の東側に二ノ丸が位置している。


 ■ 現況
本丸跡は諏訪神社の境内に、二ノ丸跡は長応寺となっている。

■ 本丸入口
南側に位置し、標柱が立っている。
■ 本丸南側土塁跡
直線状に土塁が続く。右側は堀跡であろうか。
■ 本丸跡
現在はグラウンドとなっている。
■ 本丸北側土塁跡
北西の一部に土塁が残っている。
■ 本丸西側水堀跡
西側に一部水堀が残っている。
■ 橋
本丸の西側に位置する。模擬であろうと思われるが、冠木門も併設されている。
■ 隅櫓
本丸の南西側に位置する。
平成5年(1993)に茨城県猿島町の逆井城の井楼櫓を参考に建てられた。
■ 本丸北側
道路が堀跡であったと思われる。
■ 本丸・二ノ丸間
かつては堀で区切られていたと思われる。
■ 二ノ丸跡
現在は長応寺の敷地となっている。
■ 西館跡
現在は公民館となっている。
■ 地図
説明板より。