さけのべじょう
鮭延城
鮭延城跡 遠望  訪問年月日  2007年7月16日
 別称  真室城
 所在地  山形県最上郡真室川町内町
 創築者  佐々木典膳正貞綱
 主要城主  鮭延氏・戸沢氏
 築城年  天文4年(1535)
 廃城年  寛永2年(1625)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・三ノ郭・大手道・搦手道
 遺構  郭・堀切
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
鮭延城は最上氏家臣である鮭延氏の居城である。
戦国時代、平鹿・雄勝郡を支配していた小野寺氏家臣の佐々木典膳正貞綱は勢力を拡大し、大永年間(1521〜28)に南進を始めた。その際、鮭延の地の要害に目を付けた貞綱は天文4年(1535)に拠点として鮭延城を築き、鮭延氏を名乗った。
貞綱は永禄6年(1563)に大山城の武藤氏と戦って敗れ、子息である秀綱を人質として和睦し、辛うじて鮭延城を領地として保っていた。その後、秀綱は鮭延城に戻り貞綱の跡を継いで鮭延城主となった。

−小野寺氏から最上氏の重臣へ−
主家小野寺氏と最上氏が争っている折の天正9年(1581)、鮭延城は最上義光の命を受けた氏家尾張守守棟の攻撃を受けた。これに対し、小野寺氏総領である義道は鮭延城に後詰の軍勢を派遣しなかったため、秀綱は持ち応えられずに最上氏に降伏する。
秀綱の豪勇を評価した義光は重臣として取立て、以後も秀綱に鮭延城を任せて対小野寺氏の前線とした。勇猛を謳われた秀綱もこれに良く応え、かつての主家であり姻戚関係でもあった小野寺氏との戦いで活躍した。
後に秀綱は慶長5年(1600)の長谷堂城合戦において活躍し、主家の最上氏が出羽国山形で57万石の大大名に封じられると秀綱には1万1,500石が与えられた。

−戸沢氏の入部−
江戸時代に入り、元和8年(1622)に最上氏が改易されると秀綱は古河の土井大炊守利勝に預けられ、家臣も離散し鮭延城は空城となった。その後間もなく常陸国松岡から戸沢政盛が6万8,000石の所領をもってこの地に入部した。政盛は当初、鮭延城に入城し居城としたが、この地は山城で狭すぎたため不便であったので、寛永2年(1625)に新庄城を築いて居城を移し、鮭延城は廃城となった。


 ■ 構成
鮭延城は真室川と大沢川が合流する地点から北東1.5kmの地であり、真室川の東側の丘陵に位置する。城の西側には真室川が流れ、三方を沢で仕切られている。
西端である頂部には主郭が位置し、その東側に二ノ郭・さらに東側に三ノ郭が取り囲んでいる。東端には2本の空堀が存在し、大手道があったとされる。
城域の西側には搦手道が位置し、これらの道を防御するように多くの郭が配置されている。


 ■ 現況
現在は入口に標柱が建っており、山頂の主郭跡からの眺望は素晴しいが、整備状況はあまり芳しくない。

■ 大手門跡
主郭跡東側に位置する。
■ 主郭跡
山の頂部西端に位置する。
■ 主郭跡
石碑と説明板が設置されている。
■ 主郭よりの眺望
真室川が流れる。
■ 搦手口跡
城域の南側に位置する。
■ 搦手門跡
西側麓より登城することになる。
■ 西側麓集落
この道より登城口を登って行く。