しんじょうじょう
新庄城
新庄城 本丸跡  訪問年月日  2003年8月14日 / 2007年7月16日
 別称  沼田城・鵜沼城
 所在地  山形県新庄市堀端町
 創築者  戸沢政盛
 主要城主  日野氏・戸沢氏
 築城年  天正8年(1580)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平城 / 輪郭式
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  土塁・石垣・水堀
 設置・復原物  −
 文化財指定  市指定史跡
 ■ 沿革
新庄城は天正8年(1580)頃、新庄の豪族である日野有祐によって築かれた。
その後間もなく日野氏は最上氏に臣従し、当時の城主であった日野将監定重は最上氏の家臣となった。そして最上氏が57万石の大大名となると、新庄城は「最上四十八館」の一つに数えられるようになった。

−戸沢氏の入部−
元和8年(1622)、山形城の最上氏が改易されると、常陸国松岡で4万石を領していた戸沢政盛が最上・村山地方に6万8,200石を与えられ、転封させられた。この地は元々山形藩領であったが、山形藩より分割された形となる。政盛は当初北方にあった鮭延城を居城としたが、手狭であり不便な地であったため、寛永元年(1624)3月に新庄城の築城に取りかかり、翌年3月に完成させた。縄張は政盛の義兄である鳥居忠政が担当したといわれる。
しかし完成後間もない寛永4年(1628)、作事所より出火した火災により三層天守を含む本丸・二ノ丸を焼失した。戸沢氏は直ちに復旧を開始したが、寛永13年(1636)8月、侍屋敷より出火した火災に見舞われ、再び天守・本丸・二ノ丸が焼失した。延宝3年(1675)、城内の広間を普請するなどして新庄城は再建されたが、天守が再建されることは無かった。

−戊辰戦争の災禍−
慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、新庄藩は当初奥羽越列藩同盟に参加した。
しかし7月になると新政府軍側に付いて同盟を離脱したため、庄内藩を中心とする同盟軍の攻撃を受けた。新政府軍の中心であった薩摩・長州藩の兵は敗れて撤退し、新庄藩は孤立する事となる。それにより藩主戸沢正実は城を脱出して久保田藩の下へ逃れ、将兵も城を放棄したため庄内勢が新庄城を制圧し、城と城下町は放火によって大半が焼失した。
9月になると庄内勢は撤退し、新庄藩は再び新庄城の手に戻る事となり、明治4年(1871)7月に城内に新庄県庁を置いたが、11月には山形県と合併した。

その後、明治26年(1893)には本丸跡に戸沢氏の祖である平維盛・藩祖戸沢政盛を祀る戸沢神社を建立し、大正13年(1924)1月には戸沢氏11代正実を合祀した。さらに昭和48年(1973)には最上公園として整備された。


 ■ 構成
新庄城は新庄盆地中央部を流れる中之川と指首野川に挟まれ、両川の合流地点北方に位置する。
本丸は長方形で、本丸の西側に三層天守を擁していた。また、東南側に武器櫓、北東・北西隅に大納戸櫓とそれぞれ二層櫓が設けられ、東側に表門、北側に裏門を置いていた。表門は内枡形が設けられ、一ノ門は櫓門、二ノ門は高麗門であり、厳重な門であった。本丸の周囲は土塁をめぐらせ、その外周は水堀で囲まれていた。
本丸の南側には二ノ丸を配し、さらに外周に三ノ丸が位置していた。三ノ丸の東側には大手門が設置され、東南隅に南門、北側には北門が置かれていた。


 ■ 現況
城域は最上公園として整備されており、本丸跡には戸沢神社・護国神社・天満神社が祀られている。

■ 本丸東側入口
現在は最上公園の正面入口となっている。
■ 本丸北東側水堀
上記の橋より右側を望んだ所。
■ 本丸南東側水堀
こちらは左側。
■ 本丸御玄関跡
現在は戸澤神社が祀られている。
■ 本丸御物見跡
入口向かって右側の土塁上に位置していた。
画像の奥に入口の橋が見える通り、見晴らしは非常に良い。
■ 本丸表御門跡
現在は石垣のみが現存している。
■ 本丸表御門跡
往時はこの石垣を土台とした櫓門であった。
■ 護国神社
戸澤神社南方に位置する。
■ 本丸東側土塁跡
本丸縁沿いに設けられている。
■ 本丸南東隅土塁跡
武器櫓が設けられていた。
■ 武器櫓跡
土塁上に存在していた。二層櫓であったとされる。
■ 天満神社
本丸南西隅に位置する。
天満神社は戸沢氏の氏神であり、戸沢氏が出羽国にいた頃より崇拝していた。
寛永5年(1628)に創建され、寛文8年(1668)に再建されている。本殿は1間の社流造で、拝殿は3間の入母屋造でいずれも茅葺である。
■ 本丸南側入口
二ノ丸南側に面している。
■ 本丸南側入口
橋で繋がれている。
■ 本丸南東隅遠望
■ 二ノ丸跡南側
本丸の外周を二ノ丸が覆っている形であった。
■ 本丸南側水堀
■ 本丸南西端
天満神社の裏側にあたる。
■ 西丁跡
城の西側に位置する。作事所や御厩などの施設の他、重臣の屋敷があった。
■ 本丸西側堀跡
現在は水が無いが、水堀であったか空堀であったかは不明。
いずれにせよ、現在の東側に残る水堀に比べ遜色無い規模である。
■ 本丸北西側堀跡
■ 本丸北側堀跡
■ 本丸大納戸櫓跡
本丸北西隅に位置する。瓦葺の二層櫓であった。
■ 御用水跡
指首野川より分水して城内に引き入れて用水としていた。
この水では決して汚い物を洗ってはいけなかったという。
■ 本丸裏御門跡
本丸北側に位置する。表御門同様に石垣の上に建てられた櫓門であった。
■ 本丸小納戸櫓跡
本丸東北隅に位置する。瓦葺の二層櫓であった。
■ 二ノ丸跡東側
現在は公園となっている。
■ 二ノ丸跡
南東隅と思われる。これより外側(画像左側)は三ノ丸になる。
■ 時鐘堂跡
高い櫓の上に吊るされた鐘で刻を知らせていた。
■ 二ノ堀跡
外郭の周りに廻らされていた堀跡。この外側が三ノ丸の侍町であった。
■ 絵図
城内に掲示されたこの絵図は、郷土画家の尾形芦香(1858〜1946)が自らの幼い頃の記憶を古老の証言で確かめつつ描いた物である。