てんどうじょう
天童城
天童城 中央郭  訪問年月日  2006年9月16日 / 2012年6月2日
 別称  舞鶴城・天童古城
 所在地  山形県天童市大字城山
 創築者  北畠天童丸か
 主要城主  天童氏
 築城年  建武3年(1336)か
 廃城年  天正12年(1584)
 様式  山城
 構成  主郭・中央郭・北郭・西郭・東郭・南郭
 遺構  郭・土塁・空堀・櫓台・井戸
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
天童城は最上氏一族である天童氏の居城である。天童氏は最上氏の一族であり、戦国時代には最上氏に比肩する程の勢力を誇った。

−天童丸伝説−
伝承によると天童城の最初の城主は、南朝方に属していた北畠天童丸であるといわれる。天童丸の素性は明らかではないが、北畠顕信の5代目の子孫であるといわれ、建武3年(1336)に天童城を築いて正平年間(1346〜70)から文中年間(1372〜75)にかけて山形の斯波氏に対抗していたという。しかし南北朝時代の終焉と共に勢力を失い、以後天童丸の消息は不明である。一説には陸奥国津軽へ落延びたともされる。

−里見氏から天童氏へ−
天童丸が去った後、清和源氏の子孫である里見義直が成生館に入って天童の地を支配した。
里見氏5代義景には実子がなかったため、斯波家兼の四男である義宗を養子に迎える。この義宗も子に恵まれず、永和元年(天授元・1375)に山形城主である最上氏2代直家の二男・頼直を後継として迎えた。頼直は成生館から天童城に居城を移し、以後は天童伊予守頼直を名乗った。

−最上八楯の成立−
この頼直は次男・頼高を東根に、三男・頼種を鷹巣に、四男・満長を上山に配置した。
さらに家臣では八森館に八森石見守、小幡館に小畑大隅守、成生館に成生伯耆守、小松館に小松山城守、向館に大友将監、安斎館に安斎刑部、草苅館に草苅兵庫守、大泉館に大泉内蔵助を置き、勢力拡大を図った。これらは後に「最上八楯」と称され、天童氏を中心に最上一族の中でも強大な力を誇るようになる。

永正11年(1514)、伊達稙宗が最上氏を攻撃すると、天童頼長は最上氏側に加勢する。また、大永元年(1521)に最上氏が伊達稙宗・蘆名盛滋らとの合戦となった際には一時、伊達勢に高城と共に天童城を占拠されている。

しかし、最上氏が義光の代の頃になると、天童氏との関係が関係が疎遠になっていく。天童氏は最上八楯を擁して村山地方全域を支配し、主家・最上氏に匹敵する勢力を持っていた。これが中央集権体制を目論む義光との間で大きな軋轢を生む事になった。

−最上八楯の崩壊−

天正5年(1577)5月、義光は天童城を攻撃した。しかし勇猛を謳われた野辺沢能登守満延をはじめとし、東根頼景・楯岡満英ら最上八楯が天童頼貞に味方した。加えて天童城が天然の要害であることも手伝って義光は苦境に陥る。結果的に、義光は頼貞の娘を側室に迎えることで和睦に至った。

義光はこれで満足せず策を練り、まずは娘・松尾姫を野辺沢満延の嫡子である又五郎康満に嫁がせて野辺沢氏と和睦を図った。
さらに天正8年(1580)には東根城を攻撃し、東根城城主である東根頼景は家臣・里見源左衛門景佐・蔵増安房守・鈴木新左衛門尉らの離反もあって討死した。頼景救援に駆けつけた楯岡城主の楯岡満英は東根城の落城を聞いて自害して果て、当主を失った楯岡氏は義光に降り、一族の楯岡豊前守満茂が楯岡氏の跡を継いだ。
東根・楯岡の両城を押さえた後、成生館・飯田館・六田館の館主達も義光に降り、村山盆地はほぼ最上氏の勢力下に入ったため、天童氏は孤立する事となった。これらに重なり、天正10年(1582)には義光に嫁いでいた頼貞の娘が死去したため、天童氏と最上氏の衝突は避けられないものとなった。

−天童城落城−
天正12年(1584)10月、義光は5,500の軍勢の持って再び天童城を攻撃した。天童氏は頼貞の子である頼久の代となっていたが、今回は延沢満延ら多くの武将が最上氏方に走ったため、天童氏は苦戦に陥り10月19日に落城した。頼久は母の実家である陸奥国の国分氏を頼って落ち延び、後に伊達氏の家臣となって頼澄と名乗っている。こうして天童氏が逃亡した後、天童城は廃城となった。


 ■ 構成
天童城は比高130mの舞鶴山ほぼ全域に位置し、東西約1,000m×南北約1,200mの面積を持つ村山地方最大規模の山城である。

山頂部を主郭とし、尾根が伸びる南側と西側にそれぞれ段築が設けられている。主郭よりさらに四方に尾根続きに伸びた先にはそれぞれ郭が設けられ、東側には東郭が、西側には中央郭とその先に北郭が、南側には西郭および南郭が位置している。
主郭は東西100m×南北80mの面積であり、平場を2段に渡って帯郭が廻っている。現在、愛宕神社が祀られている部分が1〜2m程度高くなっており、社殿の裏には物見櫓跡と思わしき盛土が存在する。また、南側の段築には井戸跡が残り、空堀が設けられて東郭と区切られている。

主郭から北に続く尾根沿いに位置する中央郭は東西50m×南北350mで南北に細長く、北端の高所に位置する部分と南側の平坦部に分けられる。南側は東に3段、西に5段の帯郭を設け、西側は西郭に続いている。北側は三角形状を呈し、北西に位置する帯郭は北郭に続いている。

東郭は主郭東側に位置し、北側より大きく入込んだ侵食谷を利用した段築が30段程度設けられ、その東側に南北に長い郭が位置する。

西郭は主郭の東側に位置し、北と南の2つの郭に分かれ、それぞれ西側に迫り出す数段の段築を擁する。南郭は西郭の南側に位置し、東西50m×南北65mの面積であり、北東側に5段程度の帯郭を設けている。
北郭は城域の北端に位置し、喜太郎稲荷神社が祀られている。山麓より喜太郎稲荷神社まで3段の、さらに南側に段の帯郭が設けられていた。


 ■ 現況
現在、中央郭は人間将棋会場として整備されており、遺構はかなり破壊されている。
その他の郭の遺構は比較的良好に残っているが整備が行き届いておらず藪化が激しい。

■ 大手口跡
城域南端に位置する。
現在は大手口としての遺構は残っていない。
■ 中央郭
現在は人間将棋の会場として公園化されており、遺構はほとんど残っていない。
■ 中央郭北側
現在は花畑となっている。
■ 中央郭北側大ケヤキ
中央郭北端に位置する。
■ 中央郭西側腰郭
中央郭外周を覆う腰郭の西側部分。
■ 西郭(北側)
現在は展望台が設置されている。
■ 西郭(北側)段築
数段の段築が確認できる。
■ 西郭(南側)
現在は一部畑地となっている。
■ 南郭
南郭頂部。現在は荒地となっている。
■ 南郭遠望
数段の腰郭が設けられている。
■ 主郭
城域の中心部に位置する。
■ 主郭物見櫓台跡
主郭中心部に位置する。
■ 愛宕神社
主郭跡に祀られている。
天正12年(1584)の天童城落城後に最上義光によって創建された。
■ 井戸跡
主郭跡外周東側に位置する古井戸跡。
■ 天童神社
主郭南側に位置する。
少名彦命と北畠天童丸を祀っている。
■ 石塁
天童神社周辺に見られる石塁跡。
■ 主郭〜東郭間空堀
自然地形を利用したと思われる幅約20〜30m程度の大規模な空堀。
■ 東郭南側
現在はほとんど整備されておらず、藪化がすごい。
■ 東郭北側
段築が確認できる。
■ 北郭
北西端に位置する郭跡。
■ 北郭段築
数段の段築が確認できる。
■ 喜太郎稲荷神社
北郭跡に祀られている。
■ 街道跡
城域の東側を通る街道跡。
■ 南桜門跡
■ 中桜門跡
■ 北桜門跡