つるがおかじょう
鶴ヶ岡城
鶴ヶ岡城 本丸水堀  訪問年月日  2003年7月20日 / 2006年7月26日
 別称  大宝寺城・大梵寺城
 所在地  山形県鶴岡市馬場町
 創築者  大宝寺(武藤)長盛
 主要城主  大宝寺氏・上杉氏・最上氏・酒井氏
 築城年  正平年間(1346〜69)頃か
 廃城年  明治9年(1876)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  土塁・水堀跡
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
−大宝寺氏の城−
鶴ヶ岡城はかつては大宝寺城と呼ばれ、大宝寺氏の居城であった。
藤原秀郷の流れを汲む武藤資頼が源頼朝の奥州合戦に従って功を上げ、出羽国大泉荘の地頭職を任じられた。しかし資頼は大宰府の少弐職に任じられ九州に下ったため、大泉荘は弟の氏平に譲り、氏平は大泉氏を称した。
室町時代に入り正平8年(文和2・1353)〜正平24年(1369)頃、大泉長盛は大宝寺の地に入部し、以来大宝寺氏を名乗って大宝寺城を構えた。しかし16世紀に入る頃から一族の砂越氏の反乱が目立つようになり、天文元年(1533)には砂越氏維の攻撃によって大宝寺城が焼き払われた。そこで天文年間(1532〜55)に大宝寺晴時は居城を鶴岡市北西約5.5kmの尾浦城に移し、大宝寺城は尾浦城の支城となった。

−上杉氏の支配下へ−
天正16年(1588)、上杉景勝家臣の本庄繁長が庄内地方を攻撃する十五里ヶ原合戦により、大宝寺城は焼き払われた。以後、庄内地方は上杉景勝の支配下に置かれることになる。上杉氏も大宝寺氏と同様に庄内地方支配の本拠は尾浦城に置き、大宝寺城はそのままの状態で用いられた。手勢もわずか数十騎が配備されていただけといわれる。
そのため天正18年(1590)、太閤検地の際に大宝寺城の北東にあたる藤島城を拠点として一揆が勃発した際、景勝は芋川越前守正親を派遣するが、大宝寺城は簡単に落城してしまった。
一揆鎮圧後、景勝の重臣直江兼続は大宝寺城が要衝の地にあることに着目して修築・拡張し、城代として木戸元斎を置いた。

−最上義光が鶴ヶ岡城と改名−
慶長6年(1601)、景勝は関ヶ原合戦において西軍に属したため米沢へ減封され、庄内地方は最上義光に加増された。それに伴い、義光は大宝寺城を隠居城とするために城代として新関因幡守久正を置き、整備に当たらせている。
この時、本丸には本丸御殿・黒木書院・台所などが配され、堀や土塁が整備された。二ノ丸には城代新関氏をはじめ家臣の屋敷が構えられた。そして改修が完了した慶長8年(1603)に大宝寺城は鶴ヶ岡城と改められた。この改称は、最上川の河口にある酒田湊に大亀が出現し、これを吉として酒田にある東禅寺城を亀ヶ岡城と改めた。それに対し大宝寺城を鶴ヶ岡城としたといわれる。

また義光は城下町の整備にも力を入れ、大手門から城下へ通ずるように内川へ三日町の橋を架け、新田開発の用水路の掘割や赤川の治水にも力を入れた。

−奥羽の雄藩・庄内藩の居城−
元和8年(1622)、最上氏が改易されるとその領地は四分され、徳川譜代の各大名が配置された。
庄内には信濃松代より酒井忠勝が13万8千石で入城した。その際居城を亀ヶ岡城に置くか鶴ヶ岡城に置くかで意見が割れたが、忠勝の裁断で鶴ヶ岡城になり、以後酒井氏12代の居城となった。忠勝は入城と同時に鶴ヶ岡城の改修に着手し、その後忠当・忠義の3代50年にわたって整備され、近代城郭の体制が整えられた。

明治元年(1868)、戊辰戦争の際には佐幕派の雄藩として奥羽越列藩同盟に参加して各地を転戦したが降伏・開城し、明治9年(1876)に建物は取壊された。


 ■ 構成
本丸の周囲は約500mで堀・土塁(一部石垣)と塀に囲まれ、中央の本丸御殿には藩主の居室・黒書院・白書院・広間・奥向の部屋などと井戸が6基あり、天守は築かれなかった。本丸北西には二層の御隅櫓が、南東隅には中ノ御門があり、枡形が設けられていた。
二ノ丸は本丸を囲むように外側にあり、周囲は約1180m、堀と土塁と塀に囲まれ南東隅に二層櫓が築かれ、東側に大手門・その他西門・北門が設けられていた。
三ノ丸はさらにそれを囲うようにして侍屋敷の他、藩校致道館があった。


 ■ 現況
現在は本丸・二ノ丸が鶴岡公園となっている。
本丸跡には荘内神社・護国神社が祀られている。
■ 二ノ丸大手門跡
荘内神社正面入口の大鳥居が二ノ丸大手門である。
■ 二ノ丸御兵具土蔵跡
二ノ丸北東部に位置する。画像左側が北側。北側に土塁が見える。
■ 二ノ丸外北門跡
二ノ丸北側入口である。
■ 二ノ丸馬場跡
二ノ丸南西部に位置する。現在は疎林広場となっている。
■ 二ノ丸馬場 土塁跡
緩やかな斜面の土塁である。
■ 本丸内堀 南東側
画像左奥が本丸。建造物は現在の護国神社である。
■ 二ノ丸西門跡
二ノ丸西側入口である。現在は県道47号線となっている。
■ 二ノ丸外堀 西側
二ノ丸西門跡からの眺望。幅20mはあろうか。
■ 二ノ丸南東隅櫓跡
二ノ丸南東隅にかつて隅櫓が建っていた。
■ 二ノ丸中ノ橋跡
本丸の南側入口である。本丸内側に枡形が設けられている門が存在した。
現在は大正4年(1915)に建てられた「大寶館」が存在する。
■ 本丸渡櫓跡
本丸南西隅に位置する。かつては渡櫓が建てられ、御金蔵と呼ばれていた。
■ 本丸御殿玄関跡
中ノ橋を抜けると本丸御殿玄関跡の標柱が現れる。
■ 荘内神社
本丸中心部に位置する。本丸御殿跡である。
■ 本丸内北門跡
北側入口である。現在は橋がかかっていないため、かつての面影はまったく無い。
■ 本丸北東隅櫓遠望
本丸北東に隅櫓が存在した。現在は橋がかけられ車も通行できるが、かつては存在しなかった。
■ 本丸北東隅櫓跡
上記画像の近影。土塁と礎石らしきものが残る。
■ 本丸西側土塁跡
■ 地図
■ 致道館 表御門
致道館は鶴ヶ岡城南側、三ノ丸内に存在する。
文化2年(1805)、庄内藩9代藩主である酒井忠徳が創立し、文化13年(1816)に10代藩主の忠器が政教一致を目指して三ノ丸内の現在地に移転した。