やちじょう
谷地城
谷地城 本丸跡  訪問年月日  2004年11月25日 / 2007年7月24日
 別称  谷地館
 所在地  山形県西村山郡河北町谷地字内楯
 創築者  白鳥十郎長久
 主要城主  白鳥氏・下氏
 築城年  ?
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  平城
 構成  本丸・内楯・中楯
 遺構  土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
谷地城は出羽国において最上義光と肩を並べる勢力を誇った白鳥十郎長久の居城である。
白鳥氏の出自は陸奥国胆沢郡白鳥村に在していた安倍頼時の八男である行任を祖とする説、寒河江大江氏の一族という説など多岐に渡るが、現在は地元の豪族であったとする見方が有力である。

−中条氏から白鳥氏の支配へ−
かつて北寒河江荘は中条氏が支配していた。しかし中条氏6代長昌の代に中条氏は断絶したため、永禄年間(1558〜69)に白鳥義久の子であった十郎長久が北方の白鳥館から谷地城へ居城を移した。その際に八幡宮や円福寺、善住院なども一緒に谷地に移されたといわれる。

−白鳥十郎長久の躍進−
長久は智謀に優れた将として知られ、天正元年(1570)、最上氏当主である義守と嫡子義光が争った天正の乱を仲介をするなどして最上氏の内紛の調停を行ったり、出羽探題を名乗り織田信長に名馬白雲雀を贈って大いに信長の歓心を得るなどした。こうして長久は出羽国において最上氏に匹敵する勢力を持っていたが、結果最上義光の警戒を招く事となった。
当初義光は嫡子である義康と長久の娘を婚約させ懐柔しようとしたが、長久はこれに応じなかった。それにより天正12年(1584)6月、義光は自身が重病で余命幾許も無いと偽って長久を山形城内に招き出して謀殺した。
直後に谷地城は義光の手勢によって攻められ、主のいない守兵は良く防戦したが3日間の攻防により落城した。

−上杉勢との攻防−
その後、谷地城は最上氏の支城として存続したが、慶長5年(1600)、関ヶ原合戦における上杉勢の侵攻を受けた谷地城は尾浦城主の下治右衛門吉忠に占領された。しかし関ヶ原において西軍が敗れたため、上杉勢は退却を始める。その中で吉忠は退却が遅れ、約2,500人の手勢で谷地城に立て籠もった。直ちに最上勢は谷地城を奪還すべく攻撃を開始し、吉忠は必死の防戦により11日間は支えきったが、その後降伏してそのまま義光に仕えた。
元和8年(1622)、最上氏の改易により谷地城は破却された。


 ■ 構成
谷地城は本丸を中心とした長方形状の平城である。
本丸は東西120m×南北260mの規模で、大手口は南側に位置していたとされる。
本丸の北側には内楯、東側には中楯が位置していた。


 ■ 現況
現在は住宅地となり遺構は殆ど残っていないが、三社宮の敷地が本丸跡とされ、土塁跡が残っている。

■ 県道25号線
谷地町内、城域の西方を通っている。
■ 内楯跡
現在は宅地化が進み遺構は殆ど残っていないが、字名に「内楯」が残っており、往時を偲ばせる。
■ 内楯枡形跡か
町道が僅かにクランク状となっている。
■ 三社宮入口
■ 本丸跡
宅地化されており、遺構は殆ど残っていない。
■ 本丸土塁跡
現在は三社宮が建てられている。
■ 本丸土塁跡遠望
谷地城で唯一残された遺構である。
■ 三社宮遠望
本丸跡にそびえる大イチョウは、永禄年間(1558〜69)に白鳥十郎長久が谷地城に入城した際に植えられたとされる。その後、慶応2年(1866)の大火により焼失したが、後に再び芽吹いて現在に至っているという。