やまがたじょう
山形城
山形城 二ノ丸東大手門  訪問年月日  2003年11月3日 / 2008年5月4日
 別称  霞ヶ城・最上城・大山城
 所在地  山形県山形市霞城町
 創築者  斯波兼頼
 主要城主  最上氏・鳥居氏・保科氏・その他
 築城年  延文2年(1357)
 廃城年  明治年間
 様式  平城 / 輪郭式
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  石垣・土塁・水堀
 設置・復原物  本丸一文字門石垣・東大手門
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
最上氏57万石の居城として全国有数の規模をもつ城であった。
しかし最上氏改易後は目まぐるしく城主が替わり、次第に石高も減少して左遷地の様を呈した。

−最上氏の祖 斯波氏の築城−
この地に初めて城を構えたのは羽州探題として延文元年(1356)に山形に入部した斯波兼頼である。
斯波氏は山形城に在し、総領家として最上氏を名乗った。そして応永年間(1394〜1428)頃、子息や家臣を領内各地に配し「最上四十八館」と称して在地権力の強化を図った。
しかし文明年間(1469〜87)の頃から、これらの分封された一族は独立の傾向を強くし、最上氏の権力も薄れ始め、徐々に対立の構造となっていた。

−出羽の驍将、最上義光−
そんな最中に最上氏11代の義光が誕生した。義光は生来剛毅の質の上、権謀術数にも長けており、その能力をして次々に一族を切り従え着々と勢力を拡張した。豊臣秀吉に所領を安堵された時には出羽国最大の大名にのし上がっていた。義光が山形城を大構築したのはこの秀吉時代の文禄年間(1558〜1569)から慶長年間(1596〜1614)にかけての頃である。

慶長5年(1600)、義光は関ヶ原の合戦の際東軍に組したため、上杉景勝の腹心直江兼続の侵攻を受けた。その際に義光は山形城一寸手前まで攻められたが、関ヶ原の敗戦の報を聞いた直江勢は急遽撤退し、寸でのところで山形城は戦火を免れた。
この戦いにおいて直江兼続は山形の西にそびえる富神山に登り、山形城を望んだが霞がかかって所在が分からなかったため「霞ヶ城」と呼ばれるようになったという。この軍功により、義光は置賜郡を除く現在の山形県全域と秋田県の由利郡の一部を領し57万石の大大名となり、最上氏の黄金時代を迎えた。

−最上氏の改易−
義光は慶長19年(1614)、69歳で山形城で病死したが、孫の義俊の時代に世継争いをめぐる御家騒動を起こし、元和8年(1622)最上氏は改易となり近江国1万石に移された。

その後には鳥居右京亮忠政が24万石で移封された。忠政は義光の縄張をもとに大規模な改修を行い、寛永5年(1628)に忠政が死去するまで概ね現在の形状となった。

その後、寛永13年(1636)に3代将軍家光の弟である保科正之が20万石で移封されるが、8年後に会津に移封になると目まぐるしく城主も替わり、その度に石高も減少していった。
その間は基本的な構造は変わることは無かったが、規模は次第に縮小傾向にあった。

明和4年(1767)に入城した秋元氏時代に二ノ丸東大手門外の三ノ丸に新御殿が建てられた。延享3年(1746)に入城した松平乗佑時代以降は城の経営も困難となって、城内は荒れるがままになっていたという。
最後に水野氏は天保の改革失敗による左遷という形で入城し、石高はわずか5万石であった。明治年間になって廃城になり、明治29年(1896)から終戦まで歩兵三十二連隊の本営とされ、本丸の堀は埋められてしまった。

−歴代城主の変遷−
元和8年(1622) 最上氏 57万石
元和8年(1622) 寛永13年(1636) 鳥居氏 24万石
寛永13年(1636) 寛永20年(1643) 保科氏 20万石
寛永20年(1643) 正保元年(1644) 幕府直轄
正保元年(1644) 慶安元年(1648) 結城 松平氏 15万石
慶安元年(1648) 寛文8年(1668) 奥平 松平氏 15万石
寛文8年(1688) 貞享2年(1685) 奥平氏 10万石
貞享2年(1685) 貞享3年(1686) 堀田氏 10万石
貞享3年(1686) 元禄5年(1692) 結城 松平氏(二次) 10万石
元禄5年(1692) 元禄13年(1700) 奥平 松平氏(二次) 10万石
元禄13年(1700) 延享3年(1746) 堀田氏(二次) 10万石
延享3年(1746) 明和元年(1764) 大給 松平氏 6万石
明和元年(1764) 明和4年(1767) 幕府直轄
明和4年(1767) 弘化2年(1845) 秋元氏 6万石
弘化2年(1845) 明治2年(1869) 水野氏 5万石


 ■ 構成
義光時代の山形城は、本丸は東西144m×南北133m、二ノ丸は東西433m×南北474m、三ノ丸は東西1617m×南北1553mであった。
本丸はほぼ方形で、内枡形の正門が東側に、西側に裏門があった。西口は堀が二重になっているが、その外堀の門の南側は高い石垣になっていて三層の櫓がそびえ、天守のようになった。本丸四隅には隅櫓が配置され、特に南西隅の月見櫓は最も優美を誇っていたという。
二ノ丸は本丸を囲むように設置され、北に2ヶ所・東西南に各1ヶ所の門が構えられた。
三ノ丸は面積が2,350,000uもあり、これは江戸城や姫路城に匹敵する広さである。そのため57万石の最上氏の頃はまだしも、次第に石高が減って移封された各氏は城を維持するのに困難であった。

鳥居氏時代には本丸の門が北と南東に移り、南東の門は一文字門と呼ばれ堀に突出する出枡形となった。
また、二ノ丸は東西南北に各1ヶ所ずつ内枡形の門へと変更された。
各門の枡形部分は石垣で築かれたが、それらを結ぶ塁線は土塁であった。
櫓は本丸の北東・北西・南西隅に二層櫓が、二ノ丸北辺東寄り・北東・南東・南西の各隅に二層櫓が、西辺中央部に三層櫓、北西隅に平櫓が築かれた。


 ■ 現況
現在は本丸跡・二ノ丸跡は霧城公園として整備されており、野球場や博物館が建設されている。
三ノ丸跡は宅地化されほとんど原型を留めないが、一部土塁が残っている。平成3年には二ノ丸東大手門が復原され、平成21年までに本丸一文字門及び高麗門を発掘、復原する予定である。

■ 二ノ丸東大手門跡
鳥居氏の時代に設置された二ノ丸東西南北の門の一つである。二ノ丸の4つの門の内最も規模が大きい。この門は平成3年に復原された。
■ 二ノ丸東大手門跡枡形
上記の画像からの門に入ると左側に曲がる内枡形になっている。
■ 二ノ丸東側水堀
東大手門手前から南側を望んだ様子。二ノ丸の塁線の土塁が良好に確認できる。
■ 二ノ丸跡
東大手門を抜けると二ノ丸跡であり、すぐに最上義光公騎馬像がある。
画像の白壁は東大手門裏側。
■ 最上義光公 騎馬像
この躍動感に溢れるポーズが秀逸である。
■ 本丸一文字門跡
かつて山形城が明治維新後に売却され、歩兵三十二連隊の本営となった際に本丸の堀は全て埋め立てられた。現在はそれを掘り起こして南東の一文字門を復原中である。
■ 本丸一文字門跡
2008年5月の復原状況。
■ 本丸一文字門跡
本丸南側入口である。
■ 本丸跡
堀の内側は土塁で囲まれている。
■ 本丸一文字門跡石垣
本丸の周りは水堀で囲まれていた。
■ 二ノ丸南大手門跡
■ 二ノ丸南大手門跡枡形
東大手門と同じく左に曲がる枡形が設けられている。
■ 二ノ丸南側水堀
南大手門から東側を望んだところ。
■ 二ノ丸西不明門跡
西門は門自体西側を向いているが入口の橋は南向きであり、その分余計にクランクが多い。
■ 二ノ丸西不明門跡枡形
西門正面を見て左側に枡形が設けられている。
■ 二ノ丸西不明門跡水堀
二ノ丸水堀の中で最も幅が広くなっている。
■ 二ノ丸北不明門跡
二ノ丸の門の中では東大手門を除けばこの門の石垣が一番高いようである。
■ 三ノ丸土塁跡
現在三ノ丸跡は宅地化されてほとんど原形を留めていないが、僅かに歌懸稲荷神社脇に土塁跡と堀跡が残っている。