やまのべじょう
山野辺城
山野辺城 石碑  訪問年月日  2008年5月4日
 別称  山野辺陣屋
 所在地  山形県東村山郡山辺町山辺
 創築者  山野辺氏
 主要城主  山野辺氏・日野備中守・山野辺義忠
 築城年  ?
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  土塁・堀跡・切岸・玄関(陣屋期)
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
山野辺城は、前九年の役(1051〜62)の時代に須賀川山辺氏が築城したとされるが、確証はない。
一時期には城主として山野辺刑部の名が見える。刑部は永正11年(1514)、長谷堂城合戦で討死し、その後、最上義光の命により日野備中守が1,000石をもって封じられた。これと同じ頃、山野辺城の北側100m程に隣接する山辺高楯城が存在し、高楯正福が2,500石を有していたという。
慶長5年(1600)、直江兼続率いる上杉勢の最上領侵攻により、山野辺城は高楯城と共に落城している。

−最上騒動−
慶長6年(1601)、最上義光の四男である山野辺右衛門大夫義忠が1万9,300石をもって楯岡より山野辺の地に移封された。義忠は山野辺城と城下町の整備に力を入れ、最上氏の当主としての座も目されていたという。元和3年(1617)、義忠の兄である2代藩主家親が急死すると、家親の子であった義俊は幼少であったため、藩内は義俊派と義俊を廃して義忠を擁立する派に分かれた。
これにより元和8年(1622)、最上騒動によって最上氏は改易となり、この騒動において中心人物であった義忠は備前国の池田氏に預けられる事となった。

その後、山野辺城は破却されたが、文化9年(1812)〜文久3年(1863)の約50年の間、陸奥国白河藩主阿倍氏が出羽国の飛び地として支配し、文政6年(1823)には山野辺城二ノ丸跡に陣屋を設けた。


 ■ 構成
山野辺城は丘陵の中心に東西約70m×南北約100mの規模の本丸を置き、その周囲に東西約210m×南北約330mの面積の二ノ丸を設けていた。


 ■ 現況
現在、本丸跡は旧山辺町役場跡地から山辺小学校の敷地となっている。
二ノ丸跡は山辺小学校、中央公民館の敷地となり、山野辺陣屋跡の玄関が唯一の現存建造物として残っている。

■ 本丸跡南側
高台となっている。
■ 本丸跡北東側
■ 水堀跡か
本丸・二ノ丸間に位置する。
■ 二ノ丸跡
現在は山辺町立山辺小学校の敷地となっている。
■ 二ノ丸跡西側
■ 二ノ丸跡
山辺小学校と山辺公民館の間。
■ 二ノ丸跡
山辺公民館跡。
■ 二ノ丸跡
山辺公民館南側。
■ 二ノ丸跡東側
切岸が確認出来る。
■ 二ノ丸北東側
こちらも切岸が確認出来る。
■ 山野辺陣屋玄関
山野辺城・山野辺陣屋を通しての唯一の現存建造物である。