よねざわじょう
米沢城
米沢城跡 本丸西側水堀  訪問年月日  2003年11月2日 / 2006年5月3日
 別称  松ヶ岬城・舞鶴城
 所在地  山形県米沢市丸の内
 創築者  大江時広
 主要城主  長井氏・伊達氏・蒲生氏・直江氏・上杉氏
 築城年  暦仁2年(1238)
 廃城年  明治6年(1873)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  土塁・水堀跡
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
米沢盆地の南、最上川の西岸の松川扇状地のほぼ扇央部に築かれた平城である。

−長井氏の居城−
起源については、鎌倉幕府の実力者である大江広元の二男時広が長井庄地頭職に任じられた際、長井氏を名乗って暦仁元年(1237)入部の際に築城したというが定かではない。当時の城は柵をめぐらせただけで堀も一重程度の小規模な館だったらしい。

−伊達氏の支配下へ−
康暦2年(天授6年・1380)、伊達氏8世宗遠が置賜地方に侵攻すると長井広房を鎌倉へ追い、長井氏の置賜支配は8代191年で終わりを告げ、米沢は伊達氏の支配下に入った。以来13世尚宗の代まで、伊達氏は伊達・信夫地方に本拠地を置きながら置賜地方には一族を配置して支配していたものと思われる。

14世稙宗は嫡子晴宗と争い、天文11年(1542)にいわゆる「天文の乱」が起こり、以後天文17年(1548)に至るまで近隣諸大名まで巻き込んだ骨肉の争いが続いた。
この乱によって稙宗は家督を晴宗に譲って伊具郡丸森に隠居し、晴宗は西山桑折城から米沢城に居を移した。

この後、輝宗、政宗の代に伊達氏は米沢城を居城として南奥羽に確固たる地位を築き上げ、戦国大名伊達氏としての支配を確立することになる。
米沢の城下町は伊達氏の時代に一応の形成を見て、大町・東町・南町・柳町・立町・粡町の6町を中心に発展する。しかしこの頃はまだ上杉氏の時代の本丸の外郭外堀を限る程度であったらしい。

−伊達氏から蒲生氏へ−
天正18年(1590)、伊達政宗は豊臣秀吉によって葛西・大崎旧領を与えられ、替わりに置賜の地は没収となり、蒲生氏郷に与えられた。氏郷は会津若松城を居城とし、米沢城は家臣の蒲生郷安が3万5千石を得て入城した。

−上杉景勝と腹心直江兼続−
慶長3年(1598)、蒲生氏が宇都宮に転封となると、越後から上杉景勝が120万石を得て移された。それにより米沢城は景勝の腹心直江山城守兼続が諸大名を凌ぐ破格の30万石という知行を受けて入城し、一部を改修・修築した。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦において西軍に与した景勝は米沢30万石に減封された。以来、上杉氏の苦しい国造りが始まり、同時に米沢城も改築・拡張した。

慶長6年(1601)、景勝が入城すると共に二ノ丸を普請し、同9年(1604)には門・堀などの改築が行われ、さらに同13年(1608)には直江兼続の縄張による大改築が行われた。まず三ノ丸を造営し、外堀を設け、西方に掘立川を通し、併せて本丸と二ノ丸の修築を行った。さらに追廻馬場、本丸御殿、二ノ丸の寺院造営などを手がけ、近世城郭としての完成を見た。
しかし、幕府に対する遠慮と減封による財政難から天守はもとより石垣もなく、本丸北東隅と北西隅に御三階櫓を建て、二ノ丸に4基の二層櫓が建った程度であったという。

−上杉家の苦悩−
江戸時代に入り、寛文4年(1664)、上杉氏は3代綱勝が急死し、嗣子のいない上杉家は断絶の危機に陥った。しかし吉良義央の長子三郎を養子として跡継に迎えて乗り切ったが、知行は15万石に半減され、藩の財政は崩壊の一歩手前であった。

そこで9代治憲(鷹山公)が藩政改革を実行し、大成功を収め一時危機を脱した。しかし次第に幕藩体制の崩壊の流れに身を置くようになる。文久3年(1863)、12代斉憲は京都守護職に就き、明治元年(1868)、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍に抗したが果たせず、結局13代茂憲の時に版籍を奉還し、明治6年(1873)、城郭は取り壊されて公園となった。


 ■ 構成
本丸を中心とし、その周囲を二ノ丸、さらに三ノ丸を取り囲む構造で、いずれの郭も外側に土塁と水堀を設けている。本丸には南東に上杉謙信を祀る祠堂が設けられた。また北東隅と北西隅に三層櫓(御三階櫓)が築かれ、二ノ丸には4基の二層櫓が置かれたが、三ノ丸には1基も設けられていない。時代と共に櫓の数も増えてはいるが、せいぜい10基を超える程度の質素な造りであった。


 ■ 現況
現在城跡は松ヶ岬公園となっている。
本丸跡には上杉神社が祀られており、その北側には上杉家伝来の宝物を収納・展示している稽照殿、さらに二ノ丸跡には伝国の杜(市立上杉博物館・置賜文化ホール)・松岬神社・上杉城史苑がある。
■ 本丸北東隅
本丸は方形で水堀に囲まれている。
画像右の土塁上にはかつて三層櫓が築かれており、天守の代用とされていた。
■ 本丸跡
現在は上杉神社が祀られている。
■ 上杉謙信公御堂跡
本丸南東隅は少々小高くなっており、ここには上杉謙信公の遺骸が安置され城内で最も神聖な場所であった。
■ 上杉神社
本丸奥御殿跡に建てられている。
■ 稽照殿
大正8年(1919)、米沢大火によって米沢城内のほとんどの建物が焼失したが、大正12年(1923)、上杉神社再建時に伊東忠太の設計で宝物殿として建てられた。
上杉謙信の遺品を中心に、2代目景勝、重臣・直江兼続、10代目治憲(鷹山公)他、歴代藩主の遺品が収められている。
■ 本丸御三階櫓跡
本丸北東隅には御三階櫓と呼ばれた三層櫓が設けられ、天守の代わりになっていた。
現在は顕彰碑が建っている。
■ 上杉謙信公 銅像
■ 本丸北側入口
■ 本丸北側堀
■ 本丸北西隅土塁
北東隅と並び、かつてはこの北西隅にも三層の櫓が築かれていた。
現在は土塁のみが残っており、堀を渡す入口が作られている。
■ 本丸南西隅
■ 本丸菱門橋
本丸の南側入口である。
■ 本丸菱門馬出跡
現在わずかに水堀が残る。
■ 本丸より二ノ丸を望む
■ 二ノ丸跡
二ノ丸跡には平成13年(2001)9月、「伝国の杜」が建てられて、その際の発掘調査によって
かつて二ノ丸に建てられていた真言宗の20寺院の内、大乗寺など8寺院の存在が確認された。
■ 二ノ丸跡 松岬神社
かつての二ノ丸世子御殿跡に建てられ、上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山公)・鷹山公の師、細井平洲の6人が祀られている。
■ 地図