ありやとうげかっせん
有屋峠合戦
日時  天正14年(1586)5月
場所  山形県最上郡金山町大字有屋
 秋田県湯沢市秋ノ宮
状態  山岳戦
衝突勢力 小野寺勢 最上勢
参戦武将  小野寺義道
 山田孫兵衛慰清道
 佐々木嘉助春道
 八口内尾張守貞冬
 御返事左近貞光
 稲庭上野介道勝
 川連義人経道
 三梨太郎
 増田次郎道近
 八柏大和守道為
 合川弥之助
 合川能登守
 八乙女讃岐守
 深堀左馬
 足田図書
 松岡越前守
 浅舞刑部
 飯詰七郎
 久米阿波守
 熊谷太郎
 黒沢和泉守
 八木藤兵衛慰
 戸波氏・三又氏
 高寺甲斐守道愛
 小野寺肥前守茂道
 小野寺五郎康道
 小野寺孫市陳道
 佐野修理亮道俊
 佐野孫三郎
 六郷長五郎政乗
 金沢権太郎
 本堂弥六郎
 柳田半十郎
 植田三九郎
 三春信濃太郎
 鍋倉金蔵 
 荒田目惣助
 馬倉能登守
 岩崎河内守
 大石半助
 菅六郎内記
 今泉氏・角間氏・
 樋口氏

 最上義光
 最上修理大夫義康
 楯岡豊前守満茂
 楯岡備前守
 楯岡忠光
 楯岡内膳忠光陰
 東根小二郎
 清水源左衛門慰
 延沢能登守信景
 延沢又五郎満延
 里見越後守義近
 里見掃部頭
 坂上紀伊守
 氏家尾張守守棟
 志村伊豆守光安
 小国八郎
 長崎式部大輔
 長崎源兵衛慰
 飯田播磨守
 安食播磨守
 奥村常陸介
 奥村十左衛門
 斎藤伊豆守
 近藤壱岐守
 小栗頼母助
 大久保主馬助
 日野将監
 日野惣左衛門慰
 日野数馬
 高村遠江守
 鈴木半兵衛慰
 長尾右衛門
 神尾壱岐守
 和田越前守
 和田喜三郎
 朝比奈讃岐守
 長谷川長兵衛慰
 那古屋越前守
 林崎右近
 門間彦兵衛
 伊良子大和守
 伊良子将監
 石垣河内守
 中林七左衛門
 金山与三左衛門慰
 山崎庄左衛門
 原田三左衛門
 熊沢主膳介
 高橋但馬守
 加藤源之丞
 佐竹平内左衛門
 鮭延越前守秀綱
 鈴木左衛門慰
 木戸周防守
 矢桐相模守

兵力 約6,000 約12,000
結果 撤退 撤退

有屋峠古戦場 地図
■ 背景
天正9年(1581)、小野寺領の南端に位置する鮭延城は、氏家尾張守守棟が率いる最上勢の攻撃を受けた。この時の鮭延城主は小野寺氏総領・義道の従兄弟でもある鮭延越前守秀綱であった。秀綱は最上勢の降伏勧告を無視し、頑強に抵抗した。
しかし、この合戦において義道は鮭延城へ後詰を送らなかったため、ついに秀綱は守棟に降った。これにより鮭延城は最上氏の支配下に置かれ、小野寺氏の対最上戦線は著しく後退することとなる。そのめ義道にとって旧領回復は命題となった。



■ 経過
天正14年(1586)5月2日、小野寺義道は旧領回復のため、最上領侵攻の陣触を出した。この時期を選んだのは、最上氏が越後国の上杉氏と庄内地方を巡って争っており、義光が兵力を庄内方面に集中すると風聞しての事であった。

−激突への道−
先陣は山田孫兵衛清道、佐々木嘉助春道、八口内尾張守貞冬、御返事左近三郎貞光らが務め、横手の留守居役には大築地織部秀道・柏内兄弟を置き、由利氏への押さえとして玉前式部、下村彦三郎、田代三左衛門慰らを置いた。また北方に対しては小野寺藤太郎光道に備えさせた。
小野寺勢は騎馬1,000騎、足軽5,000人の軍勢をもって5月3〜4日、有屋峠の入口である八口内に集結し、この報を受けた金山城主・金山(丹)与三左衛門慰は急遽山形城の最上義光に援軍を求め、丁度庄内方面へ出向こうとしていた義光も騎馬1,500余騎、足軽10,000余人を率いてこれを迎え撃った。

−智謀の将・八柏道為−
5月8日午前10時頃、両軍は有屋峠にて遭遇することとなった。
小野寺勢の八柏大和守道為は「最上勢を2町(約218m)ばかり引付ければ我軍に有利、逆に我軍が2町進めば不利」と読んだ。両軍は共に敵を難所に引き付けるべく膠着状態に陥ると、道為は鉄砲の名手を30人ばかり選抜し、大木の間から最上勢を狙い撃ちにし、最上勢7〜8騎を討取った。
この挑発に乗った最上勢は、細い道を進んだため、小野寺勢は両側から弓や鉄砲で打ち掛け、最上勢は大損害を受けた。これにより、最上勢の先陣である金山与三左衛門は撤退を命じ、この日の損害は小野寺勢の戦死者38人に対し、最上勢の戦死者は1,000人を越えた。この結果通り、緒戦は小野寺勢が優位であったが、小野寺勢は退却する最上勢を追撃しなかったため、引続き睨み合いが続いた。

−最上義康の奮戦−
翌5月9日、義光の下へ、庄内方面の東禅寺右馬頭勝正よりの使者が到来した。使者は味方が敗れたという報をもたらし、急遽後詰を求める内容であった。この報に接し、義光は急遽500騎を率いて庄内へ向かい、有屋峠での合戦は義光の嫡子である義康が総大将となった。
新たに義康が率いる最上勢は奮起し、12日早朝に800騎をもって小野寺勢と激突した。その中でも鮭延秀綱は精鋭100人を選び、大木の上から鉄砲で小野寺勢を狙い撃ちにした。この攻撃により八柏道為も大打撃を受け、この日の小野寺氏の戦死者は500人を数えた。

この損害により、義道は八口内に兵を残し、横手に帰陣した。これに対し、義康も鮭延秀綱と金山与三左衛門に兵を預けて山形へ帰陣した。


■ 結果
この合戦は両者の痛み分けという結果で終了したが、この後も小野寺氏は鮭延城を奪還する事は出来なかった。しかも最上氏に降った鮭延秀綱には、この後に最上氏の侵攻を受けるに置いて何度も悩まされる事となる。

−その後の余談−
慶長8年(1603)、常陸国より移封された佐竹義宣は、難所として有名であった有屋街道の代替として院内に街道を敷設し、有屋峠は廃道となった。しかし、戊辰戦争において庄内藩の軍勢が有屋峠を越えて薄久内地区を攻撃したように、軍事的重要性は失われていなかった。

■ 有屋峠金山側
黒森沢に沿った道が続く。
■ 二股付近
ここより勾配が急になる。
■ 岩場
途中、岩場をよじ登る部分など道は非常に険しい。
■ 眺望
■ 頂部
かなり狭く、大人数が激突したとは考えにくい。
■ 薄久内地区
小野寺領よりの有屋峠入口にあたる。