ひととりばしかっせん
人取橋合戦
日時  天正13年(1585)11月17日
場所  福島県本宮市荒井付近
状態  野戦
衝突勢力 伊達勢 反伊達連合軍
参戦武将  伊達政宗
 伊達成実
 鬼庭良直
 片倉景綱
 留守政景
 原田宗時
 国分盛重
 白石宗実
 浜田景隆
 高野兼高
 泉田重光
 高倉近江守
 冨塚近江守
 桑折宗長
 伊東重信
 
 畠山国王丸
 佐竹義重
 蘆名亀王丸
 岩城常隆
 石川昭光
 白川義親
 相馬義胤
 二階堂氏
 (盛義の後室)
兵力 7,000 30,000
結果 勝利 撤退

人取橋合戦 地図
■ 背景
天正13年(1585)10月8日、伊達氏17世政宗に家督を譲り隠居の身となっていた伊達輝宗が二本松城主・畠山義継によって拉致される事件が勃発した。輝宗は安達郡平石村高田原において殺害され、義継自身も伊達勢によって討死(一説には自害)する結果に終わった。
これに激怒した政宗は、父の弔い合戦と当主である義継の死によって弱体化した畠山氏を滅ぼすべく、二本松城に1万3,000の軍勢をもって攻撃した。畠山氏側は後継として義継の遺児・国王丸を擁立し抵抗したため、1ヶ月以上の籠城戦となった。そこで11月10日頃、反伊達の連合軍として常陸の佐竹義重・会津の蘆名亀王丸・岩城常隆・石川昭光・白川義親・相馬義胤・二階堂氏らが須賀川の地に結集した。これら諸将の名目は、幼少であった畠山国王丸の救援であるが、実質は伊達氏が畠山氏を滅ぼしこれ以上南下されることを防ぐ目的であった。


■ 経過
政宗は連合軍襲来の報に接し、半数を二本松城包囲に残し、残り7,000人をもってこれを迎撃すべく、奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地、本宮に本拠を置いた。
11月17日にはさらに進んで本宮の南、観音山に政宗自ら4,000人を率いて陣を敷き、鬼庭左月斎良直・片倉小十郎景綱を本陣の守備に置いて留守政景・原田宗時・国分盛重らを左右に配した。別働隊として伊達成実が1,000余人を率いて観音山南方の瀬戸川館に入った。成実の南方、荒井・五百川方面には白石宗実・浜田景隆・高野兼高らが、先鋒として泉田重光・七宮・柴野・青木らが青田ヶ原に布陣した。また最も南に位置する高倉城には高倉近江・冨塚近江・桑折摂津守宗長・伊東肥前守重信らが籠った。

それに対し、連合軍は高倉城方面に白川・石川・二階堂・岩城・佐竹勢が、中央の荒井方面には蘆名・佐竹・相馬勢が、会津街道方面には佐竹・蘆名らの主力が北進し、合計30,000の軍勢が3隊に別れて押し寄せた。

−優勢の連合軍、劣勢の伊達勢−
連合軍の主力である佐竹義重の軍勢は、青田ヶ原の伊達勢を追って本陣に向かった。そのため付近一帯は敵味方入交じり大激戦となり、政宗・義重の両将はお互い目前に迫るなど、数に劣る伊達勢は危険な状況に陥った。時に伊達勢の老将である鬼庭左月斎良直はこの危機に際し60騎を率いて佐竹勢と交戦し、人取橋を越えて奮戦したが多くの部下と討死した。このおかげで政宗は何とか本宮城へ戻ることができた。

中央の荒井方面から迫った蘆名勢は白石宗実勢を追い詰める。次いで伊達成実の軍勢と激突するも、成実配下の下郡山内記・伊庭野遠江守広昌らが善戦し、膠着状態に陥った。一方、要害の地である高倉城には連合軍が殺到し、これに対して伊東重信らが寡兵をもって対応した。重信は本陣救護のために奮戦したが敵わず討死し、伊達勢は圧倒され始めた。この勢いをもって連合軍は北進し、蘆名勢と交戦していた伊達成実勢の後背にまわって挟撃を試みる。これに対し、成実は討死覚悟で奮戦し、こうして伊達勢は終始守勢のまま日没を迎えた。

−連合軍の撤退−
その夜、伊達政宗は諸将を労い、特に成実には感状を送り、翌日の先陣を留守政景と共に命じていた。
一方、連合軍側も翌日の決戦に向けて軍議を練っていたが、佐竹義重の叔父である佐竹義政が下僕に刺殺され、さらには義重の留守を狙った安房国の里見義頼や水戸の江戸重通らが不穏な動きを見せているという報告が入り、佐竹勢はその晩のうちに常陸国へ退却せざるを得ない状況に陥った。

主力である佐竹勢が抜けた穴は大きく、その他の諸氏も次々と撤退することとなり、こうして翌日の両軍による衝突は避けられた。ちなみに佐竹氏の本国での急変や義政の刺殺事件は実は政宗の謀略という説もある。


■ 結果
翌18日、政宗は岩角城に停留して連合軍の再来を伺い、小浜城へ移動し年を越した。
結果的にこの合戦において伊達勢は426名の死傷者、連合軍側は961名の戦死者を出している。優勢だった連合軍はついに伊達勢を壊滅させることは出来なかった上、損害は伊達勢を上回った。こうして決着は付かなかったとはいえ、若干19歳の政宗が数倍の軍勢であった連合軍と渡り合った事は、奥羽全土に伊達勢の勇名を轟かせる事になる。それによりこの後、政宗は南奥羽での勢力拡大を優位に進める事に繋がった。

■ 国道4号線
かつての奥州街道であった。

■ 人取橋合戦 古戦場跡
標柱・説明板が設置され、功士檀が祀られている。

■ 標柱

■ 功士壇
合戦によって討死した鬼庭左月斎良直をはじめとする将兵を祀っている。
文政11年(1828)、茂庭氏に改称した子孫によって建てられた。