日時 |
天正16年(1588)8月 |
場所 |
山形県鶴岡市大山字上柳原
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状態 |
野戦 |
衝突勢力 |
上杉勢 |
最上勢 |
参戦武将 |
大宝寺義勝
本庄繁長
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東禅寺筑前守義長
東禅寺右馬頭勝正
池田讃岐守盛周
草岡虎之助
中山玄蕃頭朝正
阿部貞嗣
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兵力 |
数千人 |
数千人 |
結果 |
勝利 |
撤退 |
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■ 背景
庄内地方を治めていた尾浦城主・大宝寺義氏は天正11年(1583)、重臣の東禅寺筑前守義長によって暗殺された。大宝寺氏の名跡は急遽、義氏の弟である義興が継ぎ、義興は越後国の本庄氏を頼って本庄繁長の二男・千勝丸を養子とした。
天正15年(1587)、東禅寺義長は最上義光と共に大宝寺氏を攻撃した。この結果、大宝寺氏は敗北して尾浦城は落城し、義興は自刃して果てた(一説には義興は助命され山形へ連行された)。しかし大宝寺義勝と名乗っていた千勝丸は辛くも逃れ、実父である繁長の元へ逃げ延びた。
こうして庄内地方はついに最上氏の支配下となった。尾浦城は義光の命により、重臣・中山玄蕃頭朝正(光直)が城代となった。
しかし実父・本庄氏の力を借りる事となった義勝は反撃の機会を狙っていた。 |
■ 経過
天正16年(1588)、本庄繁長と義勝は、小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ侵攻した。本庄勢は菅野代館や関根城・清水城をはじめ諸城を次々と落とし、尾浦城に迫った。これに対し、東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭勝正を総大将として迎撃させ、尾浦城下の十五里ヶ原で両軍は激突した。
−東禅寺右馬頭の奮戦−
しかし数で劣る東禅寺勢は苦戦を強いられた。本庄勢は内応者の手引きにより東禅寺勢の背後に周り、尾浦城や大宝寺城を落城させた。これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は自ら本庄勢に斬込み、繁長に一太刀浴びせたが目的を達せず討取られた。この時勝正が手にしていた名刀・正宗により、繁長は兜のこめかみから耳の下まで斬られたという。この刀は繁長の手に渡り、「本庄正宗」と呼ばれた。この刀は後に紀伊徳川家へ伝えられたという。
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■ 結果
この合戦により東禅寺勢は2,500余人が討取られ、これにより庄内地方は上杉氏の支配下となった。
急報に接した最上義光は、直ちに救援に向かい六十里越えを急いだが、途中で敗報を聞き兵を退いた。
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■ 十五里ヶ原合戦 古戦場
現在は主に水田となっている。
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■ 十五里ヶ原合戦看板
この看板より入って行くと東禅寺右馬頭勝正の墓所がある。
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■ 東禅寺右馬頭勝正公募所
敗軍ながらも奮戦した東禅寺勝正と戦死者が祀られている。
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■ 手引き地蔵
詳細は不明であるが、合戦の際の手引に関するものかと思われる。
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