■ 沿革
花輪城は花輪氏の居館である。
「鹿角四頭」と呼ばれた安保氏・成田氏・奈良氏・秋元氏のうちの安保氏が花輪氏を名乗ったとされる。安保氏は鎌倉時代に地頭として鹿角郡に入部し、長子は大里上総、次子は花輪次郎、三子は柴内弥次郎の祖になったと伝えられる。
−安東氏と南部氏の狭間で−
永禄年間(1558〜70)初頭、花輪伯耆守親行は檜山の安東愛季と結び、永禄8年(1565)に南部氏の勢力下であった長牛城を攻撃、奪取した。それにより鹿角地方は安東氏の影響下に置かれたが、同11年(1568)、南部氏が再び鹿角を奪還すべく出兵すると安東氏は敗退し、親行も一時退去せざるを得なかった。しかし南部氏の当主である晴政・信直父子が対立の兆しを見せると、親行は晴政に仕える事になった。
晴政が死去すると花輪氏は一族離散の目に会うが、親行の子である帯刀延親の代に信直に召し出され、九戸の円子村で200石を賜って円子氏を称した。
天正18年(1590)、信直は大光寺正親を花輪城に置いて安東氏に対する拠点とし、翌19年(1591)の諸城破却令の際にも花輪城はそのまま残された。
その後明暦3年(1657)には毛馬内九左衛門長次が、延宝2年(1674)には中野吉兵衛康敬が城代として入城した。
■ 構成
花輪城は本館・北館・南館から構成される。
本館は東西約200m×南北約110mの広さで、西側の約半分が陣屋(御仮屋)・武具蔵・館内八幡神社などがあり、本丸と呼ばれた。東側は一段低く二ノ丸とされ、代官所などが置かれた。
本館の南側には大手口に続く坂を挟んで南館が位置している。東西約170m×南北約40mと東西に細長く、本館と同じ様に東西二段に分かれていた跡がある。
また、本館の北側には搦手口に続く坂を挟んで北館が位置し、広さは東西約90m×南北約140mで、こちらも東西二段に分かれている。
北館の東側には東西約130m×南北60mのゆるぎ館が位置している。
これら花輪館のさらに東側には花輪古館が位置し、こちらは花輪氏・大光寺氏の時代のものと思われる。
■ 現況
現在本館本丸跡に花輪小学校校舎、二ノ丸跡はグラウンドになっている。南館は空地、北館は桜山神社が祀られ、桜山公園になっている。
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■ 大手口跡
花輪の商店街から東に登って行く所にある。 |
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■ 本館跡入口
大手口を真っ直ぐ登ると、正面が本館、右側は南館に分れる。 |
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■ 本館本丸跡
本館の西側にあたる。
延宝2年(1674)に入部した中野氏の陣屋が置かれていたという。 |
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■ 本館二ノ丸跡
本丸東側、一段低い場所にあたる。 |
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■ 二ノ丸土塁跡か
二ノ丸跡の縁が盛り上がっている。
当時の遺構か、それとも後世のものかは不明。 |
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■ 南館跡入口
本館とは、大手口から登る道路を挟んで南に位置する。 |
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■ 南館跡
花輪方面の眺望や、本館が一望できる場所である。 |
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■ 北館・本館間
搦手口より登ってくると左側が北館、右側は本館跡である。 |
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■ 北館跡入口
本館の北側、搦手口よりの登道を挟んで北側に位置する。 |
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■ 花輪古館跡
花輪親行の時代はこちらの古館が居館であったと思われる。 |
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