■ 沿革
本荘城は関ヶ原合戦後、江戸時代に入ってから築城された近世城郭である。
−最上氏配下・楯岡氏の入部−
慶長5年(1600)、山形城主である最上義光は、関ヶ原合戦の際において東軍側に付いた。
そのため最上領は西軍側である上杉景勝に攻撃されたが、最上氏はこれを撃退することに成功した。義光はその功により徳川家康から上杉領であった庄内三郡に加えて由利郡も与えられ、54万石を領有することになった。
それにより義光は楯岡豊前守満茂を由利郡に5万8,000石を与えて配置し、かつて由利十二頭に数えられた岩屋氏・滝沢氏と共に由利郡を統治させた。
−本荘城の築城−
満茂は慶長8年(1603)、廃絶した赤尾津氏の居城であった天鷺城に入城したが、慶長15年(1610)になると由利氏の一族の佐藤氏・井上氏が住んでいた尾崎山に築城を開始し、2年後の慶長17年(1612)に完成させて居城とし、この地を本城と名付けた。
元和8年(1622)に最上氏が断絶になると、一時由利郡は幕領となり、楯岡氏も命運を最上氏と同じくした。満茂とその弟・満広は、上野国厩橋の酒井忠世の下へ預かりの身となった。その直後、本荘城には失脚した本多上野介正純が宇都宮15万石より本荘5万5,000石に減封されることとなったが、正純は翌々年には佐竹氏預かりの身になった。
これにより、本城には仙北郡六郷から常陸国府中に移されていた六郷政乗が転封された。政乗は本城の規模を縮小して本荘城と改称して居城とし、以後240年間、六郷氏が幕末まで本荘の地を領有する事となった。
−戊辰戦争−
慶応4年(1868)、本荘藩は久保田藩と共に新政府軍側に属したため、奥羽越列藩同盟に属した庄内藩に侵攻された。結果、隣の亀田藩が庄内藩に降伏したという事もあり、藩主六郷兵庫頭政鑑は支えきれずに本荘城に火を放ち久保田城へ逃れた。
その後、本荘城は明治2年(1869)に廃城となった。
■ 構成
本荘城は本丸・二ノ丸・三ノ丸で構成される。
本丸は尾崎山の頂部に位置し、面積は約11,800uであり、具足櫓・干飯櫓・弓櫓・長柄櫓・鉄砲櫓の櫓を擁していた。
二ノ丸は北東側に位置し、約19,400uの面積で大手口は東側に位置していた。
三ノ丸は全体の北側に位置し御殿などが設けられ、面積は約16,000uであった。
■ 現況
現在本丸跡には本荘神社が祀られており、二ノ丸と共に鶴舞公園となっている。
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■ 三ノ丸北側水堀
三ノ丸北側にのみ水堀が残っている。 |
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■ 三ノ丸城門跡
かつてこの場所に城門が存在したが、慶応4年(1868)の庄内藩の攻撃時に焼失した。
現在の門は平成6年(1994)に十万石の大名規模で昔ながらの技法で建築した復興城門である。 |
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■ 二ノ丸御門跡
二ノ丸の北側に位置する。三ノ丸へ続いており、三ノ丸を見渡せる高所に位置する。 |
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■ 本丸南側入口
当時からの入口であったかどうかは不明。 |
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■ 本丸西側の郭
本丸の西側から南側にかけて覆うように位置している。 |
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■ 鶴舞野球場へ
本荘公園から野球場へ向かう陸橋。 |
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■ 陸橋より下を望む
本荘から横手方面へ抜ける本荘街道が通っている。現在の国道107号線である。 |
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■ 鶴舞野球場
楯岡氏時代はこの地域も城域であったといわれる。
ちなみにこの周辺の現在の地名は「切通」である。 |
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