■ 沿革 
                  染川城は男鹿半島北部の相川集落に位置し、「染川」という名称は明治時代以降に呼ばれるようになったものである。 
                   
                  −出羽国の足掛かり− 
                  康永年間(1342〜45)の頃は安東兼季の居城であったとされる。 
                  湊安東氏3代惟季は康正2年(1456)、南部氏に追われて蝦夷へ渡っていた安東氏総領・下国政季を染川城に招いた。その後、政季は惟季と共同で河北郡(米代川の南北に渡る地域・山本郡から深浦に至るまでの一帯)を治める葛西出羽守秀清を滅ぼして政季の所領とした。 
                  そして明応4年(1495)、政季の子である忠季が居城の檜山城を築くに至り、檜山安東氏を名乗った。 
                   
             
             ■ 構成 
                  海岸線沿いに位置しており、波浪による侵食や地震による崩落で原形を留めていない。 
                  主郭を中心に南西側に幅6m、高さ1.5mの土塁と、南側に幅10m、深さ6mの空堀が設けられている。 
                  また、主郭の東部には大小2本の空堀を隔てて2つの郭が存在し、南側にも帯郭を擁している。 
                   
             
             ■ 現況 
      現在、入口付近に標柱が建てられているが、特に整備はされていない。 
                   
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                        ■ 入口 
                        標柱が建てられている。 
                        画像左側が城域となっている。 | 
                       
                    
                   
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                        ■ 鞍部 
                        海岸線の南西側に沿って延びており、郭が破壊されたものか土塁としての役割を果たしていたのか、 
                        現在では想像出来ない。 | 
                       
                    
                   
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                        ■ 全景 
                        郭の形が明瞭であるが、画像左側(北西側)は日本海の侵食により削られている。 | 
                       
                    
                   
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                        ■ 小増川 
                        城域の南側から東側を流れる。天然の堀の役割を果たしていたと思われる。 | 
                       
                    
                   
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