■ 沿革
赤石城は赤石町の松源寺敷地内が城域であったともされているが、それぞれ別個の城館であったと思われる。ここでは日照田集落の山城を「赤石城」、赤石町内の城館を「赤石館」として扱う。
延徳3年(1491)に種里城を居城とした津軽の地に入部した大浦光信は、種里城の支城として明応元年(1492)に赤石城を築いた。城主には弟の大浦信建(後の一町田壱岐)や、信建の家臣である大曲和泉・対馬某らを置いて守らせた。
後に大浦政信の二男・武田甚三郎守信の居館になったとされ、守信の子である大浦為信が誕生したとも伝えられる。
■ 構成
赤石城は種里城の北方数kmに位置し、種里城の北方の押さえとして機能していたものと思われる。
日照田集落の東方約200m、標高100mの丘陵に位置し、平時はこの麓の日照田に館を構えていた。
主郭を中心に数段の帯郭を要している。
また、大手口の南西側に3本の斜行型空堀を擁しており、遠くから見た形が蛇がとぐろを巻いているように見えることから「伏蛇城」とも呼ばれていた。
■ 現況
現在、主郭跡は果樹園となっている。
標柱・説明板などは設置されていない。
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■ 登道
往時のものかは不明だが、まさにとぐろを巻いたような登道である。 |
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■ 虎口跡か
土砂を掘削して設けられたものと思われる。 |
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■ 主郭跡上部
主郭跡は東西に長くなっている。
画像は東側丘陵の奥である。 |
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■ 主郭南側土塁跡
南側縁部には土塁が設けられている。 |
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■ 南側腰郭跡
腰郭と思われるが、主郭の一部かもしれない。 |
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■ 空堀跡か
上部から望む。通路となっているが空堀跡か。 |
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