■ 沿革
上遠野城は岩城氏重臣の上遠野氏の居城である。
頂部より太平洋が望めるため「八潮見城」「八塩城」の異名を持つ。
西に東白川郡、北に石川郡と接する境目に位置し、戦略上重要な拠点であった。
−上遠野氏の成立−
文治5年(1189)、下野国の小山政光の子・朝政が陸奥国菊田荘の総地頭に任じられた。その子孫が土着し、鎌倉時代末期頃までに上遠野氏を名乗ったとものと思われる。
当初、上遠野氏は入遠野に入部したが、後に上遠野へ拠点を移したとされる。
戦国期には菊田郡の西半分である上遠野郷(上遠野・入遠野・石住・滝・深山田・上山田)を支配するに至り、文禄検地においての石高は3,000石にあたる。
上遠野氏は早い時点で岩城氏と結びつきを強め、嘉吉2年(1442)、岩城氏の内紛である「嘉吉の内訌」においては、この内訌に勝利して岩城氏惣領となった岩城隆忠に組した。
その後、上遠野長秀は隆忠の孫である岩城常隆の娘を娶るなど岩城氏と婚姻関係を深め、岩城氏一門に準じる地位を確立した。
天文元年(1532)、上遠野城は佐竹氏の数度に渡る攻撃により落城したとの記録が残り、永禄年間(1558〜1570) には「上之小屋」から出火し焼失したとされる。
また天正年間(1573〜92)には入遠野の和歌城の城主に上遠野因幡守の名が伝わっている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻撃した際に岩城常隆は豊臣方に組し、上遠野城主の上遠野隆秀もこれに加わる。
−岩城氏の改易に伴う上遠野氏の去就−
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において岩城氏は徳川方に味方せず、2年後に改易となった。これに伴い上遠野氏も上遠野城を去る事となる。
その後、上遠野郷には徳川幕府の幕臣である駒木根右近が代官として配置された。間もなく上遠野郷は棚倉藩領となり、上遠野城も廃城となったものと思われる。
岩城氏改易後、上遠野一族は仙台藩の伊達氏に仕え「準一家」の家格に着いた上遠野高秀をはじめとして、他には佐竹氏に仕官して秋田へ随行した者、地元に残り帰農する者もいた。
■ 構成
阿武隈高地東縁の小盆地に南へ張り出す丘陵南端頂部に位置し、南側の山麓部に平時の居館を設け、さらに南側の御斎所街道に沿って城下町を配していた。
主郭は山頂部に位置しており、文書に記されている「上之小屋」と称される場所と推察される。
面積は約80m×60mで土塁・堀切で区画され、東側に石垣造りの門を配した内枡形の虎口が位置する。門の外側は堀切で分断されており、木橋を架けていたものと思われる。
主郭内部は高低差のある複数の曲輪を配し、随所に野面積状の石垣が設けられている。
北側外周には犬走り状の道があり、ここからも堀切状の虎口が見られる。
主郭の北端には物見台が位置し、そこに至るまで尾根を削平した細長い曲輪が複数配置されており、堀切で区切られている。
主郭東側にはやや大きな曲輪が位置し、南側から伸びている道はこの郭に繋がっているため、副郭の役割を果たしていたものと思われる。この郭から南側に関しては北側と同様、尾根上に小さい曲輪を複数設け、各所を堀切で分断している。このルートは各曲輪の脇を通る堀底道であり、曲輪からの横矢を意識している。
城域南端には八幡神社が祀られており、ここも往時は郭の一部かと想定される。
■ 現況
残存状況は極めて良好である。
上遠野中学校建設の際に一部遺構が破壊されたが、主郭を中心とした各郭、土塁・堀切などの遺構は大部分が残存する。
平成15年(2003)4月25日、「戦国時代の城としていわき市内でも有数の施設と規模を持つ」と評価され、市の史跡指定を受けた。
地域おこしとして地元民による「八潮見城探検隊」が結成され整備を充実させている。
|
■ 八幡神社入口
城域南端に位置する八幡神社の入口。
城域へのルートは2つあり、上遠野公民館を経由して北側を回るルートと、この八幡神社を経由して南側から侵入するルートがある。
こちらの八幡神社からのルートの方が主郭へのアプローチが容易である。 |
|
■ 八幡神社
かつてはここも郭の一部であったと推定される。 |
|
■ 八幡神社からの入口
八幡神社境内脇から登っていく。 |
|
■ 登道
往時の登城ルートかどうかは不明であるが、整備されていて登り易い。 |
|
■ 郭跡
八幡神社から城域中心部へ向かうルート。
尾根を削平した小さな郭が続いており、数ヶ所を堀切で分断している。 |
|
■ 堀切跡を望む
画像中央部、郭の先に堀切が確認できる。 |
|
■ 堀切跡
幅約十数m、深さ3〜4程度の比較的大きな堀切である。 |
|
|
■ 堀切跡
この堀切は一度底部に降りた後、現在はこのように横から迂回して登る形となっている。
往時は木橋のような物を架けていたのであろうか。 |
|
■ 郭跡
小さな郭というか、整備された登城道のような場所をひたすら北上する。 |
|
■ 堀切跡
2番目の堀切。
こちらも堀底部に降りた後、尾根上部の左側を迂回して進む。 |
|
|
■ 堀切跡
堀切の反対側より望んだところ。
画像右側に堀底道のような部分が見られる。 |
|
|
■ 堀切跡
3番目の堀切。
登り易いように整備され、ロープが張られている。 |
|
|
|
■ 主郭東側の郭跡
八幡神社から主郭を目指すとこの郭にたどり着く。
画像奥が主郭に至る虎口。
右側を回ると犬走り状の道を経て北側の郭に向かう。 |
|
■ 主郭東側の郭跡
南縁が一段高くなっており、その東端に土檀のような土盛がある。 |
|
■ 主郭東側の郭 土檀
櫓台のような土檀が設けられている。 |
|
■ 主郭東側の郭
正面の岩盤上が主郭跡。
画像左である南側に堀切と木橋が設けられ、大手口と推測される。
画像右である北側には犬走り状の道が存在し、こちらにも虎口があるため搦手口と思われる。 |
|
■ 空堀跡
主郭南側を空堀で分断し、木橋を架けて大手口にしていたと推測される。 |
|
■ 木橋
そろばん橋と称される木橋が復原されている。 |
|
■ 門跡
画像左側のそろばん橋から続く門跡。
主郭の大手口にあたる。 |
|
■ 門跡石積
一部石垣に使用されていたと思わしき石が残っている。 |
|
■ 主郭への道
門跡を経由し、主郭西側の虎口へ繋がる。
標柱や説明板が設けられている。 |
|
|
|
■ 主郭跡
文献で「上之小屋」と称される主郭跡。
北側と東側を土塁囲んでおり、面積は東西80m×南北60m程度である。 |
|
|
■ 井戸跡
主郭外周曲輪に複数ある「水ノ手」と称される井戸跡。
往時において主郭でも飲料水が調達できたと思われる。 |
|
|
■ 主郭外周の曲輪跡
複数の段状の曲輪で構成されている。 |
|
■ 主郭曲輪の石垣跡
主郭周辺の曲輪に設けられた石垣跡。
石は麓の川で調達されたと推測されている。 |
|
|
|
|
■ 主郭北側虎口跡
主郭北側の土塁の延長上を堀切で分断した虎口跡。
搦手口化と思われる。 |
|
■ 主郭北側虎口跡
裏側からから見た虎口。
岩盤を削って設けられている。 |
|
■ 主郭跡東側外周
比高6〜7m程度の岩盤上が主郭跡である。 |
|
■ 主郭北側虎口跡
先述の搦手虎口に隣接するもう一つの虎口跡。
土塁を分断している形状がよく似ている。 |
|
■ 犬走り
犬走り状の道が主郭北側外周に位置している。 |
|
|
|
■ 堀切跡
南側と同様に尾根上を堀切で分断している。 |
|
■ 主郭北側の郭跡
南側の郭群と同様に尾根上を削平し、小さな郭を設け所々堀切で分断している。 |
|
■ 堀切跡
南側から2番目の堀切。
全体で複数ある堀切の中で最も角度が急峻である。 |
|
|
■ 北の物見台からの眺望
天狗山、三大明神山を望む。 |
|
|
|
■ 主郭南側の郭跡
主郭南側に位置する眺望に優れた郭跡。 |
|
■ 主郭南側の郭跡
展望台となっており、簡素な東屋が設けられている。 |
|
■ 主郭南側の郭からの眺望
太平洋を望む事ができ、別名「八潮見城」の由来となっている。 |
|
■ 主郭南側郭から主郭虎口へ
この郭からは一直線でダイレクトに主郭虎口へ向かう事ができる。 |
|
|