しらとじょう
白土城
白土城 遠望  訪問年月日  2025年1月2日
 別称  白土要害・白土館・鉄台(かなけだい)
 所在地  福島県いわき市平南白土館岸、竜沢
 創築者  白土隆忠
 主要城主  白土氏(後に岩城氏)
 築城年  南北朝時代(1336〜1392)
 廃城年  不明
 様式  山城
 構成  主郭他 郭多数
 遺構  曲輪・土塁・空堀
 設置・復原物  −
 文化財指定  −
 ■ 沿革
白土城は岩城氏総領となった隆忠・親隆・常隆三代の居城であった。

−岩城氏の居城として−
白土城の築城年代に関して詳細は不明であるが、南北朝の動乱期(1336〜1392)に岩城氏の庶流であった白土氏によって築城されたとされる。15世紀前半、隆忠の代に周囲の国人衆を平定し、居城を長友館から白土城に移した。

15世紀中頃、隆忠は高久氏との抗争に陥り、岩崎郡の岩崎氏も巻き込んだ大きな争いに発展した。高久氏は白土城付近まで攻め込んで来たが、隆忠はこれを撃退する事に成功し、高久氏は滅亡に至った。
これにより岩崎氏も敗北し、結果として隆忠は岩城郡を手中にし岩城氏惣領を名乗る事となった。

天文3年(1534)、相馬氏との合戦において岩城勢は木戸川において敗走し、白土城の北に隣接する四倉の仁井田城まで相馬勢に侵入され、講和に持ち込む事となった。
これらの厳しい戦いを経て、白土城は徐々に防御力を強化していったものと思われる。 

−白土城から飯野平城へ−
隆忠の孫である常隆は文明15年(1483)、居城を飯野平城(大館城)に移したが、常隆の父である親隆は隠居して堀ノ内殿と称し、白土城北西300mに位置する白土堀ノ内館に居住した。
また天文年間(1532〜1555)、常隆の嫡子である岩城成隆の代には、弟の重隆が白土氏を名乗り白土城主となっている。
さらに永禄年間(1558〜70)・天正年間(1573〜92)城主には岩城氏の宿老であった白土摂津守の名が伝わっている。

このように、白土城は居城としての性格を失った後も、岩城氏の有力な支城として存在し続けた。


 ■ 構成
新川の右岸、南側の丘陵上にに位置する山城で、狭隘な谷を挟んで南北2つの丘陵に別れている。
面積は東西650m×南北600mの広大な面積を誇り、魚鱗状に20〜50m程度の平場が全体的に配置され、曲輪の数は100を超える。
北側の丘陵部に位置する城郭部分を「館山」と称し、南側低地の方形館部分を「館」と称した。
大手口は北側の古館地区より登坂する急勾配の道であり、南側の市営南白土墓園側からの道を搦手口としている。


 ■ 現況
各曲輪群は良好に残り土塁等の遺構も明瞭であるが、館山地域は藪化が激しいため探索は難儀である。

■ 切通跡
増福寺裏の北側に位置する。
画像右側(東方向)は主郭方面へ続き、左側(西方向)へは墓地へ続くが
この墓地もかつて郭であった。
■ 堀切跡
上記画像の右側である。
ここから主郭へ向かう道があるが、若干後世の改変が加わっている。
■ 帯郭跡
主郭南側に位置する帯郭跡。
ここから既に藪化が凄い。
■ 帯郭跡 石積
帯郭から望む主郭外周に残る石積跡。
■ 帯郭から主郭へ向かう
スロープ状に続いている。
 
■ 主郭跡
藪化が凄く、ここから先に進むのは断念した。
■ 物見台か
主郭跡南西隅に位置する土檀上の高まり。
■ 花地稲荷神社入口
大手道登ってすぐ左側に位置する最初の郭跡である。
急峻な切岸が続く。
■ 花地稲荷神社参道
九十九折に続いているが、後世の改変と思われる。
■ 花地稲荷神社境内
城を構成する郭の一つであった。
■ 花地稲荷神社
城の鎮守として勧請されたという。
一部土塁のような土檀が残る。
■ 花地稲荷神社よりの眺望
いわき市中心部を一望できる。
■ 花稲荷神社より主郭方面へ向かう
花地稲荷神社より尾根上で繋がっており、西縁外周には土塁が続く。
■ 土塁跡
西縁に位置する土塁。外側は急峻な切岸である。
■ 堀切跡
土塁を断ち切る堀切が残る。
■ 花地稲荷神社向かいの郭跡
大手を挟んで花地稲荷神社向かいに位置する郭跡。
■ 花地稲荷神社向かいの郭跡
堀切跡か、郭へ続く道か。
■ 増福寺裏墓地入口
増福寺北側切通の西側から入口が続く。
■ 墓地への登道
切通から続く尾根の延長上であるが、現在は墓地へ続いている。
■ 増福寺墓地
ここもかつて郭跡であった。
■ 土塁か
郭跡の西端に位置する土塁跡。
■ 龍峯山増福寺
岩城清胤の孫である良弘上人により開山された。
岩城氏の菩提寺であり、隆忠・親隆・常隆三代の墓所となっている。
■ 郭跡
5段の曲輪跡が残る。
現代の宅地造成と同様に、斜面を切り出して盛る事により段築を設けている。
■ 西端郭遠望
増福寺南西側郭跡を望む。