■ 沿革
従来、棚倉地方の中心となった城は棚倉城の北西1.5km離れた赤館であった。赤館は蘆名氏・佐竹氏・結城氏・石川氏・田村氏・岩城氏ら近隣緒大名の争奪戦の場ともなっていた。
慶長7年(1602)、関ヶ原合戦後に徳川家康は水戸の佐竹義宣を秋田に移した。その替わり水戸には松平康重を置き、棚倉地方には彦坂元正を代官として任命した。さらに元正は貴志五郎助を派遣して実際の政務を担当させた。
慶長8年(1603)、立花宗茂が1万石で棚倉を与えられ、初めは寺山館に入ったが、慶長15年(1610)、2万石に加増されて赤館に入った。元和6年(1620)、宗茂は旧領の柳川に転封され九州に移動した。
その後赤館には幕府から代官が置かれた。
−棚倉城の築城−
元和8年(1622)には5万石で丹羽長重に与えられ、長重は幕命により新しい城を築く事となった。
そこで長重は領内にある都々古和気神社の境内を選定し、寛永元年(1624)神社を馬場に移してこの地に棚倉城を築城した。
その後寛永4年(1627)、長重は白河に転封され、その後は城主が目まぐるしく替わったが、最後の城主である阿倍正静の時の慶応4年(1868)、戊辰戦争で新政府軍の攻撃により落城した。
元和8年(1622) |
〜 |
寛永4年(1627) |
丹羽氏 |
5万石 |
寛永4年(1627) |
〜 |
宝永2年(1705) |
内藤氏 |
5万石 |
宝永2年(1705) |
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享保13年(1728) |
太田氏 |
5万石 |
享保13年(1728) |
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延享3年(1746) |
松平氏 |
5万4千石 |
延享3年(1746) |
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文化14年(1817) |
小笠原氏 |
4万石 |
文化14年(1817) |
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天保7年(1836) |
井上氏 |
6万石 |
天保7年(1836) |
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慶応2年(1866) |
松平氏 |
6万石 |
慶応2年(1866) |
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慶応4年(1868) |
阿部氏 |
10万石 |
■ 構成
棚倉城は標高375m、総面積72,270mという大規模な城である。
輪郭式で台地の中央西寄りに本丸が位置していた。本丸は内堀と土塁に囲まれており、土塁上には櫓が5基存在した。北と東南に門があっていずれも枡形が設けられ、追手門は東南側で一ノ門・二ノ門が存在していた。
二ノ丸は本丸を囲んでおり、東西南北に門があって東側が追手門になっていた。二ノ丸は外堀で囲まれており、南と東南に突出部があって櫓が設けられていた。
三ノ丸は北西に位置し、林曲輪とも呼ばれていた。
■ 現況
現在は本丸が亀ヶ城公園として春には桜の名所になっている。
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■ 入口
商店街からの入口である。ここから二ノ丸大手門に続いている。 |
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■ 二ノ丸追手門跡
平成17年(2005)の発掘調査で所在が判明、礎石6基が発見された。
追手門は礎石の配置から脇戸と脇塀を持つ高麗門と想定される。現在礎石は保存のために埋め戻されている。 |
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■ 大ケヤキ
二ノ丸追手門と本丸追手門跡の間にある樹齢が約600年弱といわれている大ケヤキである。
棚倉城築城の頃から見続けていたことに・・・ |
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■ 本丸跡内堀 東側
二ノ丸大手門から本丸へ向かう右側からの眺望。幅20mはあろうか。 |
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■ 本丸追手門一ノ門跡
ここに一ノ門が存在し、右側に曲がる枡形になっている。画像右手の土塁上には櫓が築かれていたようだ。 |
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■ 本丸追手門二ノ門跡
本丸一ノ門を抜けて右に曲がったこの位置に二ノ門が存在した。
高さ11m程の櫓門であった。 |
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■ 本丸跡
かつてここに本丸屋敷が存在した。
現在はちょっぴり天守閣を意識したような外見の中央公民館・町立図書館が建っている。 |
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■ 本丸跡
本丸屋敷跡から二ノ門跡を望んだところ。 |
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■ 本丸跡土塁 南側
本丸二ノ門脇から登った本丸南側の土塁上である。 |
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■ 本丸南西 隅櫓跡
上記画像奥の本丸南西隅の土塁上である。
かつてここに二層隅櫓が存在した。 |
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■ 本丸跡土塁 西側
上記画像の南西隅櫓から北側を望んだところ。
本丸西側の土塁上である。 |
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■ 本丸北西 隅櫓跡
上記画像奥に位置する本丸北西隅の土塁上である。
ここにも二層隅櫓が存在した。 |
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■ 本丸北二ノ門跡
一旦土塁は切れる。画像左側に、北門の内側の門にあたる北二ノ門が存在した。
右側に通じる道は土塁へ登る道である。 |
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■ 北二ノ門 櫓門跡
北二ノ門も枡形となっており、櫓門が存在した。 |
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■ 本丸北東 隅櫓跡
本丸北東隅の土塁上である。ここに二層の隅櫓が存在した。 |
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■ 本丸跡土塁 東側
本丸東側の土塁上にのみ多聞が設けられていた。 |
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■ 二ノ丸西側
二ノ丸の西側一部には石垣が存在していた。 |
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