厨川城 堀跡 |
訪問年月日 |
06年10月8日/ 09年11月22日/ 10年5月22日 |
別称 |
安倍館・嫗戸柵・栗谷川城 |
所在地 |
岩手県盛岡市安倍館町 |
創築者 |
− |
主要城主 |
安倍氏・工藤(栗谷川)氏 |
築城年 |
− |
廃城年 |
天正20年(1592) |
様式 |
平城 / 連郭式 |
構成 |
本丸・中館・南館・北館・外館・勾当館・帯郭 |
遺構 |
郭・堀 |
設置・復原物 |
標柱・説明板 |
文化財指定 |
− |
■ 沿革
厨川城はかつての安倍氏の拠点である厨川柵跡、もしくはこれに連動していた嫗戸柵跡であったとされる。鎌倉時代以降は岩手郡地頭職に任じられた工藤氏の居城であった。
−安倍氏最期の地−
康平5年(1062)、前九年合戦において安倍貞任は厨川柵にて討たれた。その後、後三年合戦を経てこの地は平泉の藤原氏の支配下に置かれたが、文治5年(1189)の源頼朝による奥州合戦において藤原氏も滅亡する。この合戦で、伊豆国の工藤小次郎行光は父・景光と共に従軍し、それぞれ軍功を立てた。この恩賞として工藤氏は源頼朝より岩手郡厨川に所領を与えられ、嫗戸柵跡に厨川城として居を構えた。こうして工藤氏は岩手郡の地頭職として勢力を有した。
しかし、やがて工藤氏は勢力を失い、次第に三戸南部氏に屈するようになった。そして天正年間(1573〜93)頃には厨川工藤氏13代である兵部少輔光林が南部信直に服従し、800石を安堵された。
天正20年(1592)、豊臣秀吉の命により、他の南部氏の諸城と共に破却された。
■ 構成
北上川西岸の段丘に位置する。東西約150m×南北450mの面積であり、南より南館、中館、本丸、北館、勾当館と続く。それらの西側には帯郭が設けられ、それぞれの郭を堀で分断していた。
それぞれの郭の規模は下記の通りである。
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面積 |
堀幅 |
堀の深さ |
南館 |
東西91m×南北51m |
15m |
5m |
中館 |
東西95m×南北47m |
15m |
6m |
本丸 |
東西115m×南北87m |
20m |
8m |
北館 |
東西118m×南北20m |
20m |
8m |
外館 |
東西111m×南北75m |
10m |
5m |
勾当館 |
東西95m×南北63m |
10m |
2m |
■ 現況
現在、城域は住宅地となっているが、堀跡が明瞭に残り、郭跡も若干顕著に残る。
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■ 中館跡
現在は安倍館稲荷神社と忠魂碑が祀られている。 |
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■ 本丸〜中館間堀跡
こちらも大規模な堀跡が残る。 |
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