■ 沿革
雫石城はかつて「滴石城」と表記し、戸沢氏が陸奥国入部の頃よりの居城であった。
−戸沢氏の居城−
戸沢氏は平忠正の孫・衡盛が寿永年間(1182〜84)に大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したのが始まりである。文治5年(1189)、衡盛は源頼朝による奥州合戦に臣従し、その功により滴石荘、出羽国山本郡の地頭職に任じられた。その際、滴石荘戸沢村に居を構えて戸沢氏を名乗った。
滴石城の創建時期は暦応3年(興国元・1340)とされているが、この衡盛の入部の頃より城館として機能していたものと思われる。
また、一説には衡盛の子である兼盛が安貞2年(1228)に出羽国仙北郡の門屋城に居城を移したともされるが、いずれにせよ滴石城が戸沢氏の支配下にあることには変わりが無かったようである。
−滴石御所として−
南北朝時代に入ると戸沢氏は南朝方に属した。暦応3年(興国元・1340)頃には北畠顕信が滴石に御所を置いた記録が残り、この御所とは恐らく滴石城の事を指すものと思われる。顕信は貞和2年(正平元・1346)から観応2年(正平6・1351)まで在城して南朝方を指揮したという。
−南部氏の侵攻−
応永30年(1423)、戸沢飛騨守家盛の代に出羽国仙北郡の角館城に居城を移し、滴石城には一族を配して支配していた。天文年間(1532〜55)の頃には手塚左衛門尉が城主であったが、この頃になると滴石城は南部氏の侵攻を受けることとなった。天文9年(1540)には南部氏の一族である石川高信の攻撃を受け、落城した。
戸沢氏が敗れた後、滴石城はしばらく南部氏の支配下に置かれたが、天文18年(1549)に高水寺城主、斯波詮高の攻撃を受け、詮高の次男である詮貞が城主となった。詮貞は遠野の横田城主・阿曾沼氏の一族である綾織越前広信を迎え、滴石城を整備・再建させた。この時に斯波氏は雫石城と改称している。
しかし天正14年(1586)、三戸南部氏の当主・南部信直の攻撃を受け雫石城は落城した。その後は信直の家臣である八日町太郎兵衛が城代となっていたが、豊臣秀吉の破却令により天正20年(1592)に破却された。
■ 構成
雫石城は主郭・二ノ郭・三ノ郭・西郭で構成されている。全体の面積は東西250m×南北100の規模である。
主郭は東西90m×南北60mの面積であり、東端に位置している。その西側に二ノ郭・三ノ郭・西郭と続いており、堀で区切られていた。
■ 現況
現在、主郭跡に八幡宮が祀られており、その他の城域は住宅地・畑となっている。
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■ 主郭入口
県道212号線(秋田街道)に面している。 |
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■ 主郭跡
現在は斯波氏の氏神である八幡宮が祀られている。 |
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■ 堀跡
幅6〜12m、深さ2〜5mの規模の薬研堀である。 |
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■ 秋田街道跡
現在は県道212号線となっている。 |
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■ 主郭東側
下から望んだところ。切岸が確認できる。 |
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