いわでやまじょう
岩出山城
伊達政宗公 立像  訪問年月日  2003年8月13日 / 2006年7月15日
 別称  臥牛城・岩手沢城・岩出山要害
 所在地  宮城県大崎市岩出山城山
 創築者  氏家直益
 主要城主  氏家氏・伊達氏
 築城年  応永年間(1394〜1427)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・腰郭
 遺構  土塁・石垣・空堀
 設置・復原物  伊達政宗公立像
 文化財指定  −
 ■ 沿革
岩出山城は、大崎氏の重臣である氏家直益が応永年間(1394〜1427)に築いた山城である。
元は岩手沢城と呼ばれ、北羽前街道と羽後街道が交わる要衝の地であった。

−葛西・大崎一揆の勃発−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置において大崎氏が滅亡すると、氏家氏も共に滅んだ。
それにより大崎旧領は木村伊勢守吉清に与えられ、岩手沢城は吉清の家臣・萩田三右衛門が城主となった。しかし木村氏に対して大崎氏・葛西氏の旧臣は不満を持ち、岩手沢城の蜂起が発端として葛西・大崎一揆が勃発する。
この一揆の責任により木村氏の所領が没収されると、葛西・大崎氏旧領は伊達政宗に与えられた。

−伊達政宗の居城として−
天正19年(1591)、政宗は岩手沢城を居城とし、旧領の米沢より家臣や城下の町人を移動させた。
これについては、奥州仕置のために下向していた徳川家康が岩手沢城に入城、その命を受けた榊原康政によって縄張・改築され、名を岩出山城と改めたとされる。

慶長6年(1601)、政宗は関ヶ原合戦の恩賞として刈田郡を与えられた。この加増によって居城が領地の北西に偏る事となり、なおかつ城下も手狭であったため新たに仙台城を築いて移り、城下の民にも仙台へ移転するように命じた。
このように岩出山に政宗が居城を構えたのは10年余であったが、その間は朝鮮出兵や関ヶ原の合戦等の出陣のために実際は数ヶ月しか滞在しておらず、政宗の不在時は屋代景頼が留守を預かった。

−岩出山要害
政宗の仙台城への移転後、岩出山には四男・宗泰が封ぜられ、元和元年(1615)の一国一城令以後は「要害」として存城し、岩出山伊達氏が1万4,640石を得て明治維新まで統治した。
明治元年(1868)、岩出山伊達氏は北海道に移住し、知行は本藩に返上したため岩出山城は廃城となった。
その後、城内の建造物はほとんど民間の所有となったが、明治9年(1876)の大火により大部分が焼失した。


 ■ 構成
岩出山城は江合川の南岸にある丘陵の東端部、標高108mの丘陵に築かれた山城である。
北の尾根の中心部にある本丸は東西32m×南北205mの面積である。中央に土塁があり東西に二分されているが、入口があるため連絡できる。この入口の両袖にあたる土塁の側面には石垣が組まれている。
二ノ丸は東西・南北83mであり、本丸の西側に位置する。
大手口は城の南側にあり、搦手口は北側である。


 ■ 現況
現在本丸跡は公園となり一部に土塁が残っている。また、かつて仙台城にあった平服姿の伊達政宗像が立っている。
二ノ丸跡は岩出山高校、大手門跡は岩出山小学校の敷地となっている。ちなみに17世紀末に学問所として有備館が築かれ、現在は国指定史跡に指定されている。

■ 大手口跡
城の南側に位置する。
現在は岩出山小学校・高校の通学路にあたり、直接城跡には行くことが出来ない。
■ 本丸跡
丘陵の頂部にあたる。
本丸跡へは直接車で登ることが出来る。
車からの登り口とは反対側に二ノ丸跡入口がある。
■ 本丸跡
画像左側の奥に西腰郭入口である内門跡が見える。
■ 本丸跡土塁
内門跡のトイレ付近に残っている。
■ 内門跡
本丸から西ノ腰郭への出入口にあたる。一部石垣が残っている。
■ 内門跡石垣
■ 内門跡裏側
西ノ腰郭跡側から本丸跡方面を望む。
門の状態が良く分かる。
■ 西腰郭跡
名称は西ノ腰郭だが、どちらかというと南側である。規模も腰郭というよりは一つの郭ぐらいの広さである。
■ 伊達政宗公立像
かつてこの平服姿の伊達政宗公立像は、仙台城に設置されていた。
初代の騎馬像は小室達(こむろとおる)によって昭和10年に完成したが、太平洋戦争の最中金属供出によって失われてしまった。そこで戦後に柳原義達によって平服で直立であるこの政宗像が再建されたが市民には不評であった。
その後初代の騎馬像の鋳型が発見され、昭和39年に騎馬像が仙台城に再建されたため立像はここ岩出山城に引き取られ、設置されている。
■ SL広場
東腰郭入口に続いてる。
■ 東ノ腰郭跡
ひょっとしたら手前のSL広場も腰郭の一部なのか。
■ 搦手口跡
東腰郭奥にある搦手口。
人ひとりが通れる位の狭さである。
■ 搦手跡
この先は民家に続いている。
■ SL広場からの眺望
内川が街の中を流れているのが目立つ。
■ 岩出山城 遠望
北側からの遊歩道入口付近からの遠望である。
■ 岩出山城外周
画像中央部電信柱より左側の桟道のような所を登っていく。
■ 内川
城跡の脇を流れる川である。当時は堀の代わりをしていたのだろうか。
■ 空堀跡
裏手を登って山道を行くと空堀跡がある。
■ 地図
■ 有備館 正門
現在は閉じられており、すぐ脇から入るようになっている。
■ 有備館
2代宗敏の代の寛文3年(1663)の火災で城の二ノ丸にあった居館が焼失した。その際の仮居館を利用して元禄4年(1691)、3代敏親が学問所として開設、翌5年にこの地に移された。
昭和8年(1933)、有備館とその庭園は現在残る最古の学問所として国の指定史跡になっている。