■ 沿革
柴田城は船岡城址公園およびその周辺に位置するため、通称の『船岡城』が一般的であるが、かつては四保館とも呼ばれ、藩政期には船岡要害と称されていた。
柴田城の城主に関して、最も古くは柴田四郎なる者の名が伝わっているが、この柴田四郎の詳細は不明である。
『吾妻鏡』には、芝田館の芝田次郎なる者が幕府に従わなかったとして正治2年(1200)に幕府より追討の命を受けた宮城家兼に討伐され、芝田館は落ち芝田次郎は滅ぼされたとされている。しかしこの芝田館が後の柴田城であるかどうかも判然としない。
その後の柴田城の動向は不明であり、戦国時代に入ると柴田郡は伊達氏の支配下に置かれた。
天文年間(1532〜55)の頃、柴田城主は伊達氏の支配下にあった四保伊予守定朝であった。四保氏は下総国結城氏の庶流といわれ、定朝の以前に十二代続いたとされるが、記録は無く詳細は不明である。その後、2代但馬守宗義の代に柴田氏を称した。
しかし文禄2年(1593)、柴田氏は志田郡桑折に転封となり、船岡の地は屋代勘解由兵衛景頼の所領となった。景頼は二ノ丸に居館を設けたが、その後の元和元年(1615)、原田宗資が牡鹿郡大瓜より船岡の地に転封となった。
−「樅ノ木は残った」の舞台−
寛文11年(1671)、宗資の子である原田甲斐宗輔は寛文事件により、江戸にある大老酒井忠清邸で慙死し原田氏は断絶となった。
その後に天和元年(1681)、登米郡米谷へ転封となっていた柴田宗意が再度船岡の地に移され、柴田城には再び柴田氏が入城した。宗意は三ノ丸に居館を設け、以後明治維新までその治世は続いた。
明治元年(1868)、柴田城主である柴田意広は戯れて白鳥を射った新政府軍兵士対し、激怒して発砲した家臣の責を負い自害、同年には船岡の地は南部藩領となった。翌2年には不審火により建造物が焼失し、柴田氏当主である意成は家臣らと共に北海道に移住、柴田城は白石県に属する事となった。
その後柴田城は廃城になったものと思われる。
■ 構成
柴田城は船岡の地西方に位置する四保山に位置する。
本丸は頂部に位置し、長方形に近い形をしている。本丸の西・北・南側には一段低く腰郭が設けられ、本丸の南には二ノ丸が続いている。
二ノ丸は東西47m×南北79mの長方形の郭で、西縁に土塁がめぐっている。これらの北東500mの地に三ノ丸が位置し、東西155m×南北95mでこちらも長方形に近い郭である。三ノ丸の南西隅には坂口門・裏門が並び、坂口門は二ノ丸・本丸へ続き、裏門は東南麓の家中屋敷へ続く門であった。
詰の門は三ノ丸正面に位置し、みだれ坂と称する通路を通じて大手門に通じていた。
■ 現況
現在は柴田城跡は船岡城址公園として桜の名所となっている。
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■ 三ノ丸跡
東西155m×南北95mの面積である。 |
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■ 三ノ丸段差
大手門側の段差である。恐らく三ノ丸入口であったと思われる。 |
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■ 三ノ丸腰郭跡
三ノ丸東側に位置する。1〜2m程度低くなっている。 |
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■ 三ノ丸東側切岸
3〜4mの高低差を設けている。 |
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■ 三ノ丸〜二ノ丸間
三ノ丸と二ノ丸の間には広大なスペースが存在する。
郭の名称は無いものの何かしらに利用されていたであろう。
この画像奥には樅の木が植えられている。 |
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■ 樅の木
昭和45年(1970)NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」放映の際に植えられた樅の木。 |
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■ 伊東七十郎 辞世の句石碑
伊東七十郎重孝は伊達政宗に仕えた伊東肥前守重信の孫に当たる。
仙台藩3代藩主綱宗が強制的に隠居させられ、その後藩の実権を握った伊達兵部宗勝を誅殺しようとして失敗し捕らえられ、寛文8年4月28日、仙台の米ヶ袋誓願寺河原にて斬首された。 |
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■ 駐車場
こちらも三ノ丸と二ノ丸の間に位置する。
ここからスロープカーで本丸まで移動することが出来る。 |
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■ 二ノ丸跡
原田氏の時代には、ここ二ノ丸において政務を執ったといわれる。 |
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■ 二ノ丸跡 原田氏断絶後は幕府目付の支持の下、徹底的に建造物が取り壊され、土までも1m近く掘削されたという。 |
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■ 二ノ丸跡
階段式建造物であったといわれ、二ノ丸跡もそれと思われる様に段差が数段存在する。 |
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■ 二ノ丸「絹引の井戸」跡
1190年頃、この井戸から絹が出たという伝説があった。
ある時、強欲な者が馬の尾にその絹を結びどこまでも引き出したところ、200〜300丈(600〜900m)程出た所で緑色の蛇が出て、以後絹は出なくなったという。 |
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■ 供養塔
二ノ丸跡に祀られている2基の供養塔である。 |
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■ 原田甲斐宗輔公供養塔
向かって右側には原田甲斐宗輔の供養塔が祀られている。 |
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■ 柴田外記朝意公供養塔
左側は柴田外記の供養塔が祀られている。
柴田外記朝意は伊達騒動における寛文事件の際、江戸にある大老酒井忠清邸で原田甲斐を斬殺し、自身も原田甲斐によって受けた傷によって死亡した。 |
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■ 本丸跡段差
僅か1m程度、東西の段差が存在する。 |
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■ 本丸跡北側
平場というよりは通路であろうか。
殆ど斜面である。 |
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■ 本丸跡
北側(上記画像)より望んだところ。
船岡平和観音像が聳え立っている。 |
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