■ 沿革
野辺沢城は「最上八楯」の一つに数えられた野辺沢氏の居城である。
野辺沢氏の出自には二つの説があり、『野辺沢軍記』によると、応永2年(1395)頃に算学・兵法学に長けた日野大学頭昭光がこの地に流れ着き、有路氏・笹原氏・高橋氏・三宅氏らを家臣として勢力を伸ばしたとされる。
一方、『延沢八幡神社縁起』によると、東根城を築いた小田島長義が野辺沢氏の祖であるとしており、長義の子孫である満貞が東根城を追われ、野辺沢に移ったとされる。
−野辺沢城にける天人女房譚−
天文16年(1547)、野辺沢氏10代である薩摩守満重が野辺沢城を築城した。
その際の伝承によると、なかなか子供が授からなかった満重は願掛けをし、その結果として天人清水に現れた天女の羽衣を隠して妻としたという。その後、天女との間に子を授かったが、満重の留守中に隠された羽衣を見つけた天女は天へ帰り、残された手紙に「天人清水のあたりに城を建てよ。資材は天より送る」と記されていたという。こうして築かれた野辺沢城は敵が近付くと霧が立ち込め姿を隠したため霧山城と呼ばれるようになったとされる。
−最上八楯−
野辺沢氏は天童氏に従っており、「最上八楯」の一つに数えられていた。満重は大規模な山城である野辺沢城を居城とし、領内には豊かな銀山を抱えており、最も有力な氏族であった。
さらに満重の子である野辺沢能登守満延は剛力をもって知られ、武勇に優れていた。天童氏と争っていた最上義光は、満延が天童氏に味方している限り、これに勝つのは難しいと考え、満延の嫡子である又五郎に対し、自らの娘である松尾姫を嫁がせる約束をした。一方、満延からは天童氏当主である天童頼久の助命を条件とし、これを承諾した義光と満延の間に和議が成立した。こうして野辺沢氏は最上氏に降る事となった。
このような流れの中で、天正12年(1584)に義光が天童城を攻撃すると、満延は確約した通り天童氏に味方せず静観の構えを取り、義光もこれに応えて天童城が落城するに至っても頼久が落延びるのを見逃した。
こうして天童氏が滅亡した後に野辺沢氏は最上氏に従属したが、満延は天正18年(1590)に義光に従って上洛した際に病に倒れ、そのまま翌年に京都にて病没した。
満延の跡を継いだ光昌も義光に良く従い、慶長5年(1600)の出羽合戦における長谷堂城合戦や庄内地方攻略などで活躍した。義光が没した後も、その跡を継いだ最上家親に従って清水城攻略に従軍している。
元和8年(1622)、最上氏が改易となると野辺沢氏もこれに従い、光昌は肥後国の加藤家の下へ預けられた。最上氏改易後、山形城には鳥居忠政が22万石で入部し、野辺沢城は鳥居氏の管理下に置かれたが、寛文7年(1667)に破却された。
■ 構成
野辺沢城は延沢集落の東方に位置する標高297mの古城山に築かれた山城である。
中世に築城された城であるが、残る遺構はほとんどが近世城郭のものである。
本丸は山頂部に位置し、東西約110m×南北70mの面積であった。北側に高い土塁を、東南側には低い土塁を巡らせ、東端と南端には櫓台が設けられていた。北側には土塁で構成された枡形門があり、その北側には二ノ丸が位置していた。二ノ丸の面積は本丸に匹敵する規模であるが、南北に三段の段築が確認できる。
二ノ丸の南西側には同じく枡形の大手門が設置され、東側には搦手門が位置し、外側に二段の帯郭が通じている。本丸の東側にも二段の腰郭が設けられ、帯郭とそれぞれ繋がっている。
二ノ丸の北側には幅約20mの大規模な堀切が設けられ、その北側には北郭が位置し、堀切の東端には「天人水」と呼ばれる池があり、水の手として利用されていたと思われる。
■ 現況
現在、野辺沢城は国指定史跡となっており、本丸を中心に整備されている。
|

■ 街道跡
城域の西側を通る県道29号線。
かつての城下町である。 |
|
■ 大手門跡
民家の敷地と思わしき部分に標柱が建てられているが、現在は別に登城口が設けられている。 |
|
■ 七曲
その名の示す通り、つづら折の道が続く登城道である。 |
|
■ 大手門跡
七曲を経て至る大手門跡。枡形となっている。 |
|
■ 大手門跡東側
約1m程度高い平場となっており、大手門を監視する施設が設けられていたと思われる。 |
|
■ 大手門枡形跡
枡形となっている。画像は本丸方面を望む。 |
|
|
■ 本丸跡
最頂部の南側に位置する。
かつては付書院造の主殿が設けられていたという。 |
|
■ 本丸跡 樹齢約1,100年の杉が植えられている。 |
|
■ 本丸穴道跡
本丸南端に位置する。
下へ至る穴道跡と櫓台跡が残る。 |
|
■ 穴道下の郭
本丸南側、穴道に位置する小郭跡。
現在は通行不能であるが、かつては大手に回り込んで側面から攻撃する道が続いていたと思われる。 |
|
|
■ 本丸東側櫓台跡
高さ約2m程度の方形状の櫓台跡。
本丸東側の腰郭より見上げたところ。 |
|
|
■ 本丸東側腰郭
二段ある腰郭のうち最東端の郭である。 |
|
■ 馬場跡
二ノ丸東側の帯郭。馬場として利用されていたと思われる。 |
|
■ 二ノ丸
本丸の北側に位置する。
江戸時代には4軒の家屋が存在していたとされる。 |
|
■ 二ノ丸段築
高さ約1mの段築によって三段で構成されている。 |
|
|
■ 大堀切
二ノ丸とその北側を分断する堀切。幅約20mの大規模なものである。 |
|
■ 天人水
大堀切近くに湧く直径約4〜5m程度の清水。大規模な山城の貴重な水の手であったと思われる。
ここより霧山城築城にまつわる天人女房譚が始まったとされる。 |
|
|
|
|
|
|
■ 善法堂口門跡
山麓南側に位置する。
道もクランク状になっており、往時の枡形であったと思われる。 |
|
■ 南館跡
現在は尾花沢市立常盤中学校の校地となっている。 |
|
|