日時 |
天正17年(1589) |
場所 |
福島県耶麻郡猪苗代町若宮 |
状態 |
野戦 |
衝突勢力 |
伊達勢 |
蘆名勢 |
参戦武将 |
伊達政宗
猪苗代盛国
片倉景綱
伊達成実
白石宗実
浜田景隆
大内定綱
片平親綱
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蘆名義広
金上盛備
富田将監
佐瀬河内守
佐瀬種常
松本源兵衛
和田大隈守
室井越前守
沢井越中守
渋川助右衛門
刎石駿河守
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兵力 |
23,000 |
16,000 |
結果 |
勝利 |
撤退 |
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■ 背景
蘆名氏は16代当主盛氏の代に絶頂期を迎えていた。
盛氏は永禄4年(1561)、嫡子である盛興に跡を継がせていたが、盛興は天正3年(1575)に急死した。盛氏は急遽二階堂氏より人質にとっていた盛隆を養子として迎え、盛興の後室と婚姻を結ばせて蘆名氏を継がせた。しかし盛隆も天正12年(1584)に黒川城内にて、家臣である大庭三左衛門に暗殺された。
盛隆死後、当主の座は生後僅か2ヶ月の遺児亀王丸が継いだが、亀王丸も天正14年(1586)に3歳で夭折する。この様に蘆名氏は天正8年(1580)に盛氏が死去してから当主が目まぐるしく替わり、不安定な中にあった。
−蘆名氏の跡継ぎをめぐる伊達氏と佐竹氏−
亀王丸の死後、蘆名氏の男系は途絶えたので養子を迎える動きになったが、重臣の金上盛備ら諸将が推す佐竹義重の次男義広と、富田氏実・平田左京亮が推す伊達政宗の弟・小次郎との間で激論となった。結果、義広を養子にする事に決まり、天正15年(1587)、当時白川氏の養子となっていた義広を黒川城に迎えた。この事により蘆名氏と佐竹氏の関係はより強固なものとなったが、伊達氏との関係は絶望的なものとなった。しかも蘆名氏の内部では義広に従って来た大繩讃岐・刎石駿河・平井薩摩らの重臣と、四天宿老を含む蘆名氏との間はあまりうまくいかなかった。
−政宗、起つ−
政宗はこの機に乗じ出兵を決意、天正17年(1589)4月になると米沢城を発ち、仙道筋に兵馬を進めて大森城に入城した。翌5月3日には本宮城に陣を移し、4日には安子ヶ島城、5日には高玉城を落とした。こうして会津方面への道を確保すると、相馬氏が浜通方面において、政宗の正室・愛姫の実家・田村領に侵攻し始めたので、政宗は一転し相馬領北方に位置する駒ヶ嶺城を19日に、蓑首城を20日に攻め落として相馬氏を牽制した。
さらに6月1日には蘆名氏の重臣であった猪苗代盛国を内応させ、盛国の居城である猪苗代城を会津攻略の前線とした。政宗は速やかに片倉景綱・伊達成実らを猪苗代城に入城させ、原田宗時・新田義綱に大塩城を攻略させた。そして政宗本人は4日に猪苗代城に入城し、蘆名氏との決戦に備えた。
一方、蘆名氏側も対応の動きを見せた。5月27日、義広は父である佐竹義重・岩城常隆・相馬義胤らと合流し須賀川に入り、28日には滑川まで前進した。さらに政宗の猪苗代城入城に対応し、急遽猪苗代湖畔を経由して6月4日、黒川城に入城した。
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■ 経過
6月5日未明、蘆名義広は黒川城を発って猪苗代湖畔北側の高森山に本陣を置いた。
富田将監の500騎を先陣に、二陣:佐瀬河内守・三陣:松本源兵衛・四陣:佐瀬種常・五陣:不明・六陣:和田大隈守・七陣:蘆名義広・踵軍:室井越前守・沢井越中守・右備:渋川助右衛門・左軍:刎石駿河守総勢1万6,000人の兵力である。
この蘆名勢の動きを見て政宗も出撃した。政宗は本陣を八ヶ森に置き、先陣は先だって寝返った猪苗代盛国・二陣:片倉景綱・三陣:伊達成実・四陣:白石宗実・五陣:伊達政宗・六陣:浜田景隆・左備:大内定綱・右備:片平親綱、総兵力は2万3,000人であった。
−激突−
義広は夜が明けた頃を見計らい、猪苗代湖畔の民家に火を掛け気勢を上げる。やがて卯の刻(午前6時頃)、お互いの先陣、伊達勢の猪苗代盛国と蘆名勢の富田将監が激突して戦いの火蓋は切られた。
蘆名勢は西からの強風を追い風にして優位に戦いを進め、将監は盛国の軍勢を追い散らし、二陣の片倉景綱の軍勢も苦戦に陥った。これを見て伊達成実・白石宗実らの勢は磐梯山麓を迂回して蘆名勢の側面に回り、蘆名勢の本隊を急襲した。
−形勢逆転−
しかし午後に入り、折からの西風は東風に変わり、逆に蘆名勢は逆境に立たされた。蘆名氏の重臣である金上盛備・佐瀬種常・常雄らは最期まで踏み止まって奮戦したが討死し、蘆名勢は総崩れとなった。敗走した蘆名勢は西方の日橋川に殺到したが、そこに架かっていた橋は地理に明るい猪苗代盛国によって既に落とされており、川に落ちて溺死する者が続出した。この日橋川で溺死した人数は騎馬76人、徒歩800余人といわれる。
午後4時頃、戦いの決着は完全についた。義広の周りには僅か30騎しか残らず、日橋川の橋が落とされていたので迂回して西方の堂島の橋を渡り、黒川城に入った。しかし既に蘆名勢には黒川城を支える余力も無く、10日の夜には黒川城を捨てて白川城に逃れ、その後生家佐竹氏を頼って常陸国へ落ち延びた。
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■ 結果
この戦いによる蘆名勢の死者は2,500人といわれ、蘆名勢の完全な敗北であった。また蘆名氏当主・義広が常陸国へ落ち延びた事により、鎌倉以来の名族である蘆名氏は滅亡する事となった。
一方、政宗は6月11日に黒川城に入り、蘆名氏の累代の所領であった会津・大沼・河沼・耶麻の4郡の他、安積郡の一部、下野国塩谷郡の一部、越後国蒲原郡の一部が伊達氏の支配下となった。それにより政宗は居城を米沢城からこの黒川城に移す事となった。
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■ 摺上原合戦 古戦場跡
猪苗代湖の北に位置する。磐梯山の南麓でもある。 |
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■ 旧二本松街道跡
近世において会津の若松城下と本宮宿を繋ぐ街道跡である。 |
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■ 三忠碑
蘆名義広の家臣である金上盛備、佐瀬種常・平八郎常雄父子らは主君の危機を救い、共々討死した。
後世、会津藩主・松平容敬がその忠誠ぶりを後世に伝えるために建立した。
碑文は全文437文字を唐の書家・顔真卿の書体を集めて刻まれている。 |
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